ROUND DANCE

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「たとえば聴いたこともない民族音楽をふと耳にして、妙に懐かし いと感じたりすること、あるだろ。あれな、頭じゃ覚えてなくても 細胞が記憶しているんだ。現世に生まれるずっと前の世で生きていた頃の記憶なんだ」
 アメリカ人の同僚が得意げに語って聞かせたことがある。
「相手が人間なら、それを一目惚れって言うけれど、違う。出会った瞬間に恋に落ちてるんじゃない。前世か、そのまた前世か、わからないけど、彼らは必ず一度は愛し合った時を共有していたのさ」
 僕は日本に残してきた婚約者をふと思い浮かべた。
「何百年も前からの絆だ。他人がどんな横槍を入れたってかないっこない」
 彼がどういうつもりでそんな話をしたのかはわからない。正直、 彼女を失うまで、思い出しもしなかったことだった。

 転勤先のニューヨークにフィアンセの理恵が僕を訪ねてきたのは、クリスマスを控え、街中に活気が満ちている時だった。ニューヨー クが一番ニューヨークらしい雰囲気を醸し出す季節だ。けれどちょうどその時期、見計らったかのように仕事上のトラブルが起きたお かげで、僕は空港まで彼女を迎えに行くのが精一杯だった。
「悪いけど、昼間は付き合えそうにないんだ」
 アッパー・イースト のアパートメントへ向かうタクシーの中で僕がそう言うと、彼女はぎっしりと買い物リストが書きこもれたメモを見せ「かまわないのよ」と笑った。
 部屋のドアを開けると、ルームメイトのレオがすかさず僕らを出迎え、理恵に手をさしのべる。
「絵描きさんなの?」
 レオの手を握り返しながら理恵が言った。説明するまでもない。部屋にはレオの使う油絵の具の匂いが充満して いたからだ。
 共通の友人の紹介で知り合ったレオはアートスクールに通う画家 の卵で、物静かな若者だ。
「絵を見るかい?」
「いいの?」
 理恵はヴィトンの旅行バッグを放り出すと、レオの部屋へ導かれていった。再会の喜びを交わす間もなかった。だいいち、 彼女は絵画や美術品に興味を示すタイプではない。僕は不思議に感じながらも、二人のために熱い紅茶をいれた。
 翌日、僕が仕事から戻ると、理恵がキッチンに立っているのに驚かされた。カレーの匂いが鼻腔をつく。僕は嬉しくなって鍋を覗き込んだ。彼女の手料理なんて、食べたことがない。
「レオがカレーを食べたことがないって言うもんだから」
 僕は複雑な気持ちでレタスをちぎる理恵を見つめた。
 食事の後、理恵が日本から持ってきた緑茶を煎れた。レオが初めての渋さに眉間に皺を寄せると、理恵がはしゃぎながらそれをからかう。片言の英語でレオに話しかける理恵。それを辛抱強く聞き取ろうとするレオ。おかしな英語表現に茶々を入れる僕に、気づくことさえなく。
「ところで理恵、買い物は済んだのか?」
 僕がそう言うと、彼女は初めて日本語を聞いたかのような表情で僕を一瞥すると、再びレオを見つめた。

「モデルになってくれって、頼まれたの」
 その夜、ベッドの中で理恵が遠慮がちに告げた。
「かまわないかしら?」
「いいさ。将来レオがビッグになったら、自慢できるだろ」
 僕は寛容なところをみせるつもりでそう言った。
「でもまさか、ヌードじゃないよな」
「当たり前じゃない」
 理恵は拗ねたように背を向ける。僕は伸ばしかけた手を、そっと引っ込めた。再会してから、キスすらしていない婚約者の細い肩が、 確固たる意志をもって僕を拒絶しているように見えたからだ。

「メトロポリタンに行ったわ」
 三日目、彼女はソーホーの古着屋で買ったという地味な色のセーターを着ていた。
「レオと?」
 さり気なく訊いたつもりが、自分でも驚くほど嫌味のこもった口調になった。
「何が気に食わないっていうの?」
 理恵は全く悪気なさそうにそう言い捨てると、レオの待つ部屋へ消えた。絵を描いている際中は、 レオは決して他人を部屋に入れない。それはルームメイトの僕です ら例外ではなかった。そこに立ち入ることが出来るのは、モデルとなった理恵だけ。
「悪かったよ」
 僕はそっとノックをしてドアの向うに囁いた。
「明 日は休みがとれたから、君に一日付き合う。ライオン・キングのチケット、手に入ったんだ。観たがってただろ」
 沈黙の後、小さくドアが開かれ、レオが部屋の中を見せまいとするように、そこに立ち塞がっていた。
「仕事中なんだ。明日は一日彼女を独占できるんだろう。少し静かにしてくれないか」
 不安が確信に変わる時、人間はこうも冷静さを失うものなのか。情けないのは百も承知で僕はレオを力任せに殴りつけ、部屋から走り去った。どちらかが僕を追ってくれればいいのにと願った。けど、僕の背中は微かな視線さえも感じなかった。
 レオを殴るのはお門違いだ。そして理恵を責めるのも。なぜなら、 誰も恋心を罰することなど出来ないからだ。何がどう狂ってしまったのか。どんなに考えてもわかりっこなかった。こうなるのは、初めから決まっていたことなのだ、きっと。  
 僕はオフィスの仮眠室でウィスキーと共に惨めな夜をやり過ごし、二日酔いのまま仕事を始めた。  
 
 理恵が日本へ帰る前日、僕は酔った勢いでアパートの前まで足を運んだ。冷え切った夜の路上から、建物を見上げる。レオの部屋から、仄かな灯りが洩れている。その窓の向こうにある情景を、僕は容易に想像することが出来た。キャンバスと理恵を行き来するレオの真剣な眼差し。一糸纏わぬ姿で横たわる、艶かしく、美しい理恵の姿。時折絡み合う二つの視線は、気の遠くなるような時を経て巡り会った恋人たちだけが持つ、濃厚な空気の中でお互いの欲情を呼び覚ますだろう。
 僕は叫び出しそうになるのを堪えて、その場を立ち去った。この時期だけクリスマスのイルミネーションに彩られたエンパイア・ス テート・ビルディングが、遠くから僕を見下ろしている。歩きながら僕は、今年の冬はきっと厳しい寒さになるだろうと予感していた。酔いはすっかり醒めていた。

 理恵を乗せた飛行機が飛び立つ頃、僕はアパートに戻った。レオの部屋のドアは開いていて、キャンバスを満足そうに眺める彼は、僕と目を合わせることなく言った。
「彼女は帰ったよ」
 完成したその絵を、僕が観ることは永遠にないのだ。

 その後、僕はレオと別れて一人、新しいアパートへ移った。判りきっていたことだけれど、あれ以来、理恵からの連絡はない。僕は時々考える。例の同僚が言ったことが真実だとすれば、彼女があの部屋へ一歩入った瞬間、むせ返りそうな油絵の具の匂いが、彼女の細胞だけが知る前世の記憶を甦らせたのに違いない、と。
 そしてこの僕は、愛する人を失った、惨めな思い出が残る街を、やはり離れられないでいる。僕は初めてニューヨークの街角に立った日の興奮を、今でもはっきりと思い起こすことが出来る。
 飛行機が遅れ、会社が用意してくれたホテルに着いたのは真夜中だった。近くのデリカテッセンへ取り敢えずの食料品を求め、僕は寝静まった街へ出た。人っ子一人いないこの路上は、紛れもなく世界有数の犯罪都市――ビッグ・アップル。ピリピリとした空気が、心臓を激しく揺さぶる。足元から突き上げてくる、痺れるような感覚。死と背中合わせの恐怖感が、なぜか心地良い。
 あの時、僕の細胞も目覚めたのだ。遥かなる前世に、僕はこの街に生き、ずっとこの街を愛していたのだと。
 時を超えて巡り会った二人があれからどうなったのか、僕には知る由もない。


 


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