息を呑むとはどういうことか、僕は初めて知った。驚きのあまり歯が鳴ることが本当にあるなんて、思ってもみなかった。脚が震えだしたのは、寒さのせいでも、疲れたせいでもなかった。
本物のゴジラは、膝のあたりまで海水に浸かって、まっすぐに僕らを睨んでいた。火を噴くわけでもなく、叫び声を上げるわけでもなく、ただじっと、身動きひとつせずに鋭い目で僕らを睨んでいた。
ゴジラに一度驚いてしまうと、僕は釣り桟橋の人だかりに視線を移した。僕と同じ年格好の人間が殆どだった。
見覚えのある顔もいくつかあった。1979年、宣伝用のゴジラ人形を盗んだイラストレーター、ゴジラ研究家を自称していた元二枚目俳優、ゴジラシリーズ歴代のキャスト、そして監督たち。捨て切れず、あきらめ切れず、それでも無理矢理心の奥にしまい込むしかなかったものが、誰にでもあったのだ。胸を焦がし、神経を奮い立たせ、全身を熱くさせるものが……。
そして彼女も、十年前と変わらぬ少女のままで、その中にいた。
強い風が真正面から吹きつけ、彼女の長い髪が揺れた。
左の耳たぶに三つのピアス。
間違いない。
僕は一歩一歩彼女に近づきながら、涙があふれてくるのを止めることができなかった。皆、同じ目をしていた。同じ想いでゴジラを見つめていた。そして誰の頬にも、涙が伝っていた。
「私があの国会議事堂を壊したんですよ」
と、かつてゴジラのぬいぐるみを被り、巨額の金をつぎこんで作ったセットを片っ端から破壊した名も知らぬ役者が言った。
「すっかり大きくなっちまったね、もう私ひとりじゃ動かせそうにない」
老人は目を細めて笑った。
彼女は背を目一杯伸ばしてゴジラを見上げていた。僕は彼女の後ろに立って、彼女の肩越しにゴジラの太い足を見た。どこかでけがをしたのだろう。鰐のようにごつごつとした皮膚が裂け、血が滲んでいた。僕らの中に流れるものと変わらぬ、美しい色の。
そしてそれはゆっくりと、ゴジラの足を伝って流れ落ち、海に溶けていった。僕は握り締めていた拳をそっと開いて彼女の肩の上に乗せ、ゴジラを見上げた。ゴジラは僕らを睨んでいたのではなかった。僕らと同じ目で、僕らを見つめていた。彼女はゴジラから目を逸らさぬまま、僕の手の上に暖かい手を重ねた。
「やっと、会えたのね」
ゴジラになのか、僕になのか、わからなかった。
僕はポケットから煙草を取り出し、くしゃくしゃになった最後の一本に火を点けた。最高の気分だった。
ゴジラは時折尾を振って、静かな海に波を立たせた。僕らの体にも水しぶきがかかった。けれどゴジラは僕らを襲ったりはしない。
絶対に襲わない。
僕らは『シェー』をしたゴジラを知っている。
ごつい指で照れ臭そうに鼻を掻いたゴジラを知っている。
ミニラの頭を撫でた大きな手と、父親となったゴジラの、優しい顔を知っている。
ゴジラの大きな二つの瞳と、僕らのささやかな、たくさんの瞳の間には、何処にもしまい込むことが出来ず、他の誰にも与えることのできなかった愛というものが、今、確かに存在していた。
誰もが待ち望み、夢見ていた。何もかもが崩れ去った後、広大な大地に降り注ぐ、清潔で、新鮮な太陽の光を。風が鳥の歌声を運び、美しい地球の本当の香りを匂い立たせながら通り過ぎてゆく日を。
突然、ゴジラが地を揺るがすような大声でわなないた。すばらしい響きだった。
ゴジラは顔を上げて空を仰ぐと、そっと足を反転させた。尾は水面に大きな円を描き、無数の波を作った。二つに裂けたボートがすっぽりと埋まってしまうくらい大きな波が立った。ゴジラは海へ帰ってゆく。僕らはスクリーンで見慣れたゴジラのでこぼことした背中を見つめた。
次の瞬間、ゴジラはぴたりと立ち止った。それと同時に、誰もが息を止めた。
ゴジラは振り返り、微笑んでいた。確かに、微笑んでいた。
握手をすることもかなわず、言葉を交わすこともできずにいた僕らの、束の間の再会の時も、終わろうとしていた。
誰かがしゃくり上げ始めた。そして皆、震える腕をそっと伸ばし、最後の力を振り絞って手を振った。次第に大きく、強く、僕らは手を振り続けた。ゴジラはそれに応えるかのようにもう一度わななくと、僕らに背を向け、二度と振り返ることなくゆっくりと、冬の冷たい海に沈んでいった。
ゴジラを呑み込んだ海面に残された波紋が消えるまで、僕らは動かず、次第に輪郭をなくしてゆく水の輪を見守っていた。ゴジラが消えた海はこれまで見たこともないくらい青く透き通り、静かで、美しかった。
彼女の指先から、すうっと力が抜けてゆくのがはっきりとわかった。
「メリー・クリスマス」
僕は彼女の耳元につぶやいた。
「メリー・クリスマス」
彼女がそれに答えた。
全員が空に向かって叫んだ。
メリー・クリスマス!
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