Innocent Pearl

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 恭ちゃん、もう一杯。
 本当にこれが最後だから。
 はいはい、ちゃんと帰れるわよ。この話が終わったら引き上げるから。ダブルでお願いね。
 赤い珠……ずいぶん昔に聞いた話で、すっかり忘れていたんだけれど、その時突然頭に浮かんだのよ。
 男の人がおしっこしようとする時に、あそこの先っちょから、小さな赤い珠がコロンと出てきたら、それは打ち止めを知らせる珠だっていう言い伝え。嘘か信か、その赤い珠が出たら、生涯、あと一度しかセックス出来ないんですって。勃たなくなるのか、相手がいなくなるのか、その辺はわからないけど。
 滑稽よね。なんだか、間抜けな話だわ。聞いたときは笑い飛ばしたんだけれど、でも、よく考えるとそっくりじゃない、その話と。色は違っても、小さな珠が、性器から落ちてくるなんて……。
 急に寒気を感じたわ。それと同時に、開け放した窓からひんやりとした風が吹き込んだの。春だなんてとても思えないような、氷のように冷たい風が、ほんの一瞬。それを頬で受け止めた瞬間、はっと息を呑んだわ。朝からお酒飲んでたなんて嘘みたいに頭の中が冴え渡ったの。
 そして、もう一度、じっくりとその玉を見て、私は悟った。
 神様が私に与えてくれた女としての時間はもう、終わってしまったんだって。
 何故も何もないの。終わってしまったのよ。
  私にはわかったの。説明のしようがないけれどね、それが真実なのよ。
 赤い玉が男としての役目の終わりを予告するように、その白い玉が、私に告げたの。『アナタハモウオンナデハアリマセン』ってね。
 まだまだ生理のあがる歳でもなかったし、子供だって産んでない。けれど、繰り上げられちゃったのよ、きっと。その一年の間に、女の、嫉妬心や執着心といった醜さを、一生分出し切ってしまったのね。けなげさも優しさも、すべて捨て去って、私は女であることなんか、すっかり忘れていたわ。でも、もう遅かった。救いようのないくらい、私は女じゃなくなっていたのよ。
 彼を憎んだことなんて、ない。私は彼を奪った女を憎んで、憎んで、その憎しみと対象となった女に心奪われた彼に、いつまでも未練を残す自分を憎んで、ただそれだけのために、自分自身に罰を与えるために、醜態を曝しながら飲みつづけていた……。
 終わったのよ、何もかも。私はもう、女ではない。結婚という事実を武器に彼の人生にはびこる、居候でしかなくなっていたのよ。
 そうと認めてしまった途端、お腹のそこから笑いがこみあげてきた。
 他人が見たら、とうとうアル中で気が狂ったって思ったでしょうね。おかしいのか、悲しいのかわからないまま、私は笑い続けたわ。笑うことしか思いつかなかったのよ。でも、不思議ね、息が切れるまでとことん笑ったら、心の中が晴れ晴れとしてきたの。初めて春を迎えたような、すがすがしい気分だった。
 私は一年ぶりに庭に出て、外の空気を存分に吸い込んでから、声に出して言ったの。『はい、おしまい』って。恨むのも妬むのもおしまい。お酒を煽るのも泣き叫ぶのも、これでおしまいって。
 家中にこびりついていたアルコールの匂いを追い出すと、代わりに濃い緑の香が私を包んでくれた。新しい季節がこれから始まるんだわ。彼にとっても、私にとっても。
 主人がいつも通り、六時半に帰ってきた。私は微笑って迎えたわ。夕食の支度は間に合わなかったから、外のレストランへ行こう、って言ったの。こんなことになる前は、よく二人で食事をしたフレンチ・レストラン。予約を入れておいたのよ。最後だもの。
 一番高いコースを頼んだわ。
 彼は何も聞かず、とにもかくにもほっとした、っていうような表情で、サーロインをたいらげた。私も、死ぬ思いで肉を口に運んだの。さんざん飲んだ後だもの。ステーキはきついわよね。ね、そうでしょ? わかってくれるわよね。
 家に帰って、その夜のうちに、彼の荷物をまとめてあげたの。私は鼻歌さえ歌っていたわ。そんな私の様子を、彼は驚いて見つめていた。憑き物が落ちたかのように、突然明るくなった私を、宇宙人を見るような眼で。彼の気持ちが、もう私からは永遠と同じくらい遥か彼方にあることが、その眼でわかったわ。悲しいけれど、その事実をすんなりと受け入れることが出来た。
 どうしてそんな素直になれるのかって? 
 決まってるじゃない。未来永劫、心の底から私をいとおしく想って、抱きしめてくれる可能性のない男に、どうしてこの身を削ってまで尽くさなければならないのよ。
 生涯、あと一回しかセックスできないっていうのに、心がそこにない男にいつまでも執着しちゃいられないでしょ。
 そう、あと一度きり。
 赤い玉の伝説が真実ならば、私の残された人生で、絶対に、もう一度だけ素晴らしい夜がやってくるわ。次の朝のことなんか、ましてや未来のことなんかどうでもいいと思えるほどに、情熱が身も心も溶かしてゆくような夜が、きっと。
 私ね、信じて待つわ。サンタクロースを待っていた子供の頃のように。そんな夜が来るのよ。信じているわ。生きていれば、きっと来る。いつか、きっと……。
 長いこと喋っちゃったわね、ごめんなさい。そろそろ失礼するわ。恭ちゃん、お勘定をお願い。この娘さんの分もね。
 お話できて楽しかった。あなたはどう、少しは元気になった? 世にも悲惨なおばさんの物語を聞いた後だもの、自分の人生はまだまだ捨てたもんじゃないって、思えるでしょう。あとね、ひとつだけ言っておくわ。ふふ、そうね、さっきからひとつだけって言いっぱなしね。でもこれが最後の忠告。人前でどんなにそっけなくても、貴女の友達に会ってくれなくても、二人だけになった時、貴女を抱きしめて、愛していると言ってくれない男だけはやめときなさいね。私が彼と出会って結婚して、こんな風になった今でも、こうして生きていられるのは、そういう男を選んだからなのよ。
 それじゃ、おやすみなさい。じゃあね、恭ちゃん、また、明日。

「ふう」
彼女はカウンターに肘をつき、安堵の溜め息を漏らす。
「あー、疲れた。おばさんのお喋りはたまらないわよ」
 カウンターの中では、店主の恭二が聞こえないふりをしながら黙々とグラスを磨いている。もうすぐ閉店時間で、客は最後の一人を残すのみとなった。磨きながら、つい先程帰って行った女を思い返す。少女の頃から、妙に色のある女だった。手芸が得意とか、ピアノが弾けるとか、そういったお嬢様然とした女らしさとは違う。何かこう、少年たちに、未知なる感情を沸き起こさせるものを、その身に潜めていた。
 永い年月を経て巡り会ってから何度も聞かされた話には、頷けるものがある。彼女に近づき、弄んだ末に突き放した男たちの気持ちは、あながち、理解できないでもない。そう、あの女には貞淑な妻の図は似合わない。四十を過ぎてもなお、あの少年の頃のやきもきした、切なさに似てなくもない、けれど深入りしてはならないと、本能が警鐘を鳴らすかのようなときめきを感じさせる。
 結局のところ、男の性欲というのは、こんなものなのかもしれないと、思うことがある。
「もう、終り? ねえ、もう一杯だけ作ってくれない? このまま寝たんじゃ、夢見が悪そうだわ」
 恭二は頷き、氷を砕き始める。
「もう、ぐじぐじ泣くのはやめるわ。馬鹿馬鹿しい。あんなおばさんになったら、ほんとにおしまいだもの。今が華の盛り。たかだか恋なんて、いくらだってできるわ」
彼女は差し出されたカクテルをひとくち啜り、再び息を吐いた。甘たるいオレンジの香りが、恭二の鼻先まで、ほんのわずかに漂った。
「だいたい、信じられるわけがないじゃないの、あんな話。あの人、頭おかしいのよ。お酒の飲みすぎで、脳みそが溶けちゃったのね、きっと」
 若い彼女の遠慮のない言葉に、恭二の眉が少しだけひきつった。
「くだらないったらないわ。ね、マスターだって信じないでしょ?」
 磨き終わったグラスを銀のトレイに並び終えると、彼はその上に白い布を被せ、ゆっくりと彼女に向き直った。
「信じますよ」
 とうに音楽が消された店内に、沈黙が訪れた。
「やだ」
彼女は吹き出して、それでも恭二の、真摯ではあるが冷ややかな眼差しに身がすくんだのか、眼を逸らしながら小声で呟く。
「そんなに真剣な顔しないでよ」
「信じますとも」
両手を後ろに組み、姿勢を正してもう一度、はっきりと彼は言った。
「私も、出たんです」
「え?」
「赤い球がね」
 そう言って、彼はネクタイに指を滑らせる。太陽にあたる生活と長い間縁の無かった人間らしい、恐ろしく白い指先に、小さな粒状のものが光るのを、彼女は見た。
 細めの黒いネクタイのピンの上に光る、鮮やかな赤い球。赤い赤い、見つめていると幻暈がしそうな、深く、暗い赤。これまでに見たどの赤色とも違っている。目を逸らそうとすればするほどに、彼女の視線はその赤い球に釘付けになった。
 隣の席に置かれたままのグラスの中で、女の指のぬくもりが残っていたのか、溶けた氷が乾いた音を立てる。
 背を向けて帰り支度を始めた店主を呆然と眺めながら、彼女はつかの間、いつかきっと来る数十年後の自分の姿を、垣間見たような気がした。


 


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