ATOLL


 ゲストのトランクがひとつ、フロントに取り残されていることに、ビキは気づかなかった。目敏く見つけた支配人のジムが、ここぞとばかりに彼に罵声を浴びせる。英語があまり理解出来ないのは、かえって良かったのかもしれない、とビキは思った。若いスタッフは大きな荷物も軽々と運んでゆくけれど、六十に近いビキが出来るのは、カートに荷物を載せる手伝いくらいだった。丸一日働いて、貰えるのは小遣い程度。他のスタッフのチップのおこぼれだ。
 数十もの環礁から成るこの国の、一番貧しく小さな島から出稼ぎにやってきて、もう二年になる。世界各国からゲストが訪れる大型リゾートで、現地語しか喋れないビキに任せられる仕事などなく、ジムが常々、
「同情で雇ってやったんだよ」
 と洩らしていることも知っていた。
 それでも故郷の島で何の仕事に就けないよりはいい。残り物ではあるが食事も出るし、月に一度、妻が待つ島へ帰る時には、固くなったパンや傷み始めた野菜を分けてもらえる。
 陽が落ちる頃、この日最後のボートが島を出ていった。仕事を終えたビキは、サンセットを眺めるゲストの邪魔にならないよう気遣いながら、砂浜で貝を探した。故郷の海では、美しい貝など殆ど見かけなくなってしまたので、妻への土産にするつもりだった。けれど、この島の浜辺も打ちあげられた珊瑚の死骸でいっぱいだった。
 ずっと向うの環礁に空港が出来、世界中の金持ちが島を買い、競うようにホテルを建て始めてから、どれくらい経つのだろう。豊富に獲れた魚は激減し、海は少しづつ輝きを失い、加えて地球温暖化の影響で珊瑚は壊滅的なダメージを受けた。
 腹を立てる気力もなくなった頃から、夕焼の海が、これ以上ない程物悲しい光景に見えるようになった。それでもこの海は十分美しいと、各国から訪れる者が後を絶たないのだから、地球は一体どうなっているのだろうと、ビキは時々思うのだった。
 今日のところは諦めようと、ビキは立ち上がった。波の音だけは昔と変わらなかった。南風が椰子の木々を通り抜ける時の、さらさらとした音を聞くと、ビキは、貧しくともこの環礁に生まれたことに、つかの間、感謝するのだ。
 つま先に固く尖ったものが触れた。もう一度腰を落として砂を指でかきわける。そこには虹色に輝く、美しい巻貝が埋まっていた。
 ビキの口元に、この日最初の微笑が浮かび、沈みかけた太陽は、きらきらとその小さな宝物を照らした。


 


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