ジモティに続け!



 クアラルンプールには横断歩道がない。ひょっとしたら見た目にはわからないだけで、規程されているのかもしれない。でもわからないんだから、ないに等しい。一応、信号だけはあるけれど、歩行者のために作られたのもではない。いやいやひょっとしたらそのつもりもあるかもしれないが、その機能たるものは、九割方車のためのものだ。つまりこの街には、「歩行者が安全に渡ることのできる道路」など存在しないのである。
 クアラルンプールの『ハード・ロック・カフェ』へ行ったことのある方はおわかりかもしれないが、ホテルが集中するブキッ・ビンタン地区からタクシーでここへ行くと、道路挟んだ向かいの歩道で降ろされる。店はすぐ目の前にある。けれど、いくら首を伸ばして左右を見ても横断歩道などない。あるはずがないのだ。ああ、この数メートルを渡ることさえできれば、あの猥雑な雰囲気の中でビールが飲める至福の時間が待っているというのに。車はあざ笑うように連なって私の前を通り過ぎていく。
 こういう時、車が途切れる隙をうかがうジモティー(地元の人)を見かけると、もう、両手を広げて(それくらいの気分で)駆け寄ってしまう。彼らの見事な横断技ときたら、もう、惚れ惚れしてしまうほどだ。車と車の間隔を瞬時に見極め、数秒の隙を仕留めると、さりげなく、ああ、本当にさりげなく、ささーっと涼しい顔で渡ってゆくのだ。旅行者にとっては、何よりも逞しい存在。
 この街では青信号なんか頼りにならない。ジモティーの後を小走りに追いかけて渡るに限る。走りながら私は心の中で呟く。
「ジモティーに続け!」


 

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