お時計さんも、さようなら


 先日、ふと気づいたら目覚まし時計の針が止まっていた。てっきり電池切れかと思い、替えてはみたけれどうんともすんとも言わない。以前にも何度か同じようなことがあったので、修理に出すことにした。
 直径20cm近くある大きなディズニーの時計で、ドナルド・ダックが時を指し示すこの時計なのだけど、何せ20年も前に買ったものである。いい加減、部品も揃わないかもしれない。
「新しいの買った方が安いんじゃないのか」
 と亭主が言う。確かに、今は2,000円も出せば性能のよろしい目覚まし時計のひとつくらい買えるだろう。 けれど、20年である。愛着があるし、治せば使えるものなら、これを使いたい。
 翌日、袋に入れて駅前の時計屋さんへ持って行った。店主は一目で古いものと理解したらしく、苦笑いを浮かべながら分解し始める。
 普通、メーカー側は10年もてばよい、という認識のもとで作っているらしく、当然部品もないだろうし、修理はほぼ不可能との結論を得た。
「ずいぶん長持ちしましたね」
 と、感心のお言葉も頂戴した。いよいよ、別れの時がきたのである。
 修理できなかったからお代は結構、と言って下さったので、ここで新しい目覚まし時計を買うことにした。今までのよりずっと小さく、シンプルなタイプである。
 おニューの時計とともに、持って帰ったのはいいけれど、捨てるにはやはり忍びない。20年間の感謝を込めて、せめてきれいに磨いてあげることにした。
 電池を抜き、洗剤を使ってごしごし。所々に浮かんだ錆はそれでもなかなか消えていかない。磨いているうちに、なぜか涙が浮かんできた。たかだか時計が壊れたくらいで、馬鹿らしいかもしれないけれど、色んな想いが胸に押し寄せてきたのだ。
 私は『物』にはあまり執着しない。この時計を買った頃の洋服も食器も、今は何ひとつ残っていない。 でもこの時計だけは20年間、特に社会人になってからは朝が苦手な私を心地よい眠りから引きずり出し、現実に戻してくれた、まさになくてはならない存在だったのだ。
 図体もでかいが音もでかい。このやかましいベルの音を、地獄から響く鐘の音のような思いで聞いた朝もあった。枕元でプロレスをする猫たちに蹴り倒されても、めげることなく、毎朝、私を起こしてくれた。
「ご苦労さんでした」
 と声をかけながら磨き続ける。ぴかぴかというわけにはいかないけれど、お色直しを終えた時計は、店主が最後に合わせてくれた、午前11時40分を指したまま、もう永遠に時を刻むことはない。
 それにしても止まったのが休日で本当に良かった。平日だったらえらいことになる。これも、目覚ましなくては起きられない私に対する最後の思いやりだったのかな、と考えたりもする。
 そんな感傷に浸っている反面、電池もないのに動き出しちゃったらどうしよう。まさしくチャッキー(@『チャイルド・プレイ』)だ! などとしょうもないことを、つい考えてしまう。


 


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