花道の微笑


 もう、17回忌になるのだろうか。ここ最近、美空ひばりさんの特集をTVでよく見かける。特にファンというわけではないけれど、ついリモコンを止めて観てしまう。 そしてその都度、日本で、彼女を超える女性ヴォーカリストは、おそらく半永久的に出てこないだろう、と思う。 決して好きではないジャンルの歌でも、この人の歌声には、いつだって圧倒される。
 実は子供の頃、一度だけ彼女のステージを観たことがある。
 まだ小学校低学年の頃だったと思うから、恐ろしく昔の話だ。実家に住み込んでいたお手伝いさんの慰安旅行で、母と3人、上京した。
 会場はコマ劇だか歌舞伎座だか明治座だか、覚えてはいないけれど、座席は花道のすぐ真横。今思えば、かなり良い方の席ではないか。
 前半はお芝居。 大きな旅館に奉公に出た娘(ひばりさん)がそこの若旦那だか誰かと恋に落ち、意地悪な親戚の娘に邪魔され、 おまけに病魔に犯されていることを知り・・・といった、かなりベタなストーリー(よく覚えているなあ)。
 第一部が終わって昼食。大人は松花堂弁当で、子供はうな重(本当によく覚えているなあ)。
 その後はひばりさんのショウ・タイムである。
 どんなステージだったのか、何を歌ったのか、さっぱり思い出せない(もっとも彼女の持ち歌なんて、元々知らなかったけれど)。
 ショウも中盤、子供にとっては退屈が頂点を極める頃である。一度、舞台袖に引っ込んで、衣装を変えたひばりさんが、花道から登場した。もう、目と鼻の先である。 芸能人を近くで見る機会なんて、あるはずもなかったから、物珍しく、私は彼女の顔を凝視した。
 そして、それは一瞬の出来事だった。彼女と私の目が合った瞬間、彼女は、にっこりと微笑んだのだ。まわりはおばさんばかり。間違いなく私に向って微笑んだのだろうけれど、ほんの一瞬こと。その判断が出来ず、私は微笑み返すことができなかった。
「今、あんたを見てにっこり笑ってたよ、わかった?」
 と、母に耳打ちされ、確信が持てた時にはもう遅い。
 あの時、こわばった顔を崩さずにいた子供の姿は、ひばりさんの目にどんな風に映ったのだろう。
 大人になってからカラオケでひばりさんの歌を歌ってみた。 聴いた限りでは簡単そうだったのに、音がとりにくく、失敗に終わった。こういう時に限って、バツの悪いことにカラオケボックスではなく、スナックのような場所。久しぶりに顔を合わせる同級生の前だったもので、えらい恥をかいた。一般人がおいそれと歌いこなせるようなレベルのものではなかったわけだ。
 さすがは昭和の大スター。ほろ酔い気分で歌うことすら、恐れ多い存在だ。


 


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