私に道を訊かないで
会社を休んでちょっとした定期検診へ行ってきた。身体に異変があったわけではなく、
どうにも仕事が行き詰まって、さぼりたくなったのだ。
少し遅めに起きて、マンションの裏口から外に出る。すると、運転がへたなのか、
妙にのらりくらりと狭い路地を入ってくる一台の高級車。
私の姿を目に留めたドライバーのおじさん、車を止めてこう言った。
「日大のB学部って、どこですかね?」
ああ、たしか最寄駅は2つ先だから・・・・・・。
「詳しい場所はわからないけれど、もっとずっとあっちですよ」
と、おじさんが走ってきた大通りを指差す。
「どうも」
と走り去るおじさん。 私も病院へ向かって歩き始めた。その時、とんでもないことに気がついた。
違う! B学部は反対方向。私が教えたのは日大のH学部の方だ!
でも遅かった。おじさんの車はすでに私の視界から消えていたのだ。
しかも、大通りを少し戻れば、交番があることも、同時に思い出した。
ああ、やってしまった。日大に学部が多すぎるから悪いのだ。紛らわしいのだ!
と、日大のせいにできたらどんなにいいだろう。
だいたい私は方向音痴だし、ペーパー・ドライバーなので(だからうっかり失効なんぞをやってしまう)、
道を訊かれたって、正しく答えられない。これが全く知らない土地であるならば、わかりません、
と正直にはっきり言うところだけれど、地元である。
お買物バッグを手に普段着でふらふらと歩いている人間がこの周辺のことを訊かれて
「わかりません」じゃ恰好がつかない、といった打算が一瞬働いてしまったのが、今回の悲劇である。
以前、引っ越してきたばかりの頃、2人組のおばさんに
「この近くに区営住宅はありませんか?」
と訊かれたことがある。友人でも訪ねてきたのだろう。住所はM町。M町といえば、隣の駅から出ている私鉄の駅である。
とりあえず隣駅までの道を教えた。なんだか納得いかない様子のおばさんたちが立ち去った後、私は道を曲がる。
はっ。電柱に取り付けられた住所を見ると・・・・・・。ここはM町3丁目!
そんなに広い町だったなんて・・・・・・。これも時すでに遅し。おばさんたちの姿は、もうなかった。
もしかするとおばさんたちは病気療養中の旧友を励ますためにここへやって来たのかもしれない。今日のおじさんも、実は偉い学者さんかなにかで(あの高級外車からすると充分あり得る)、
日大B学部の講演にでも招かれていたのかもしれない。
おばさんたちに会うことは二度とないだろうけれど、
あのおじさんには、マンションから出てくるところをしっかり目撃されている。
待ち伏せされて、嘘つきとののしられたらどうしよう。
お願いですから、私に道を尋ねないで下さい。
もしあなたが道に迷って困り果てていても、背が低くてショート・カットで(主人曰く)シーズー犬に似ている女には、決して決して、道を訊いたりしないで下さい。
二度と抜け出せないラビリンスに迷い込むか、約束を果たせなくなるか、大遅刻して信用を失ってしまうのが関の山です。
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