おいしく食べて
先日、ちょうどお昼時、外へ行く用事ができたので、たまには外でランチと目論んだ。たまたまお弁当を持ってこなかったので、ちょうどよかった。
一度銀座で地下鉄を降り、ぶらぶらと銀座界隈を散歩する。ふと、「焼きたてパン」の看板が目にとまり、その店に足を踏み入れた。
トレイを持って、前菜からデザートまで、好きなものをチョイスしていくスタイルだ。
ずらりと並んだサラダはご飯茶碗くらいの大きさのボウルに盛られて\350。結構なお値段である。
ランチのセット・メニューはビーフ・シチューやロール・キャベツ等数種類のプレートに好きなパンがつく。飲物はプラス\100だ。
メインにハンバーグ&えびフライを選び、カウンターのお姉さんに告げる。するとお姉さん、おもむろに保温ボックス(と言えばよいのだろうか?)を開け、ハンバーグやらつけあわせの野菜やらを皿に盛り付け始めた。給食の配膳を想像していただければよいと思う。
どうです? これだけで味が想像できませんか?
そう、思った通り、ハンバーグもえびフライもひどい代物だった。厚い衣の中にはかまぼこのようなしょぼい海老。
いったいどんな肉とつなぎを使えばここまで不味く作れるのか、首をひねりたくなるほどエグイ味のハンバーグ。おまけにつけあわせは私の嫌いないんげんと人参のグラッセだ。
ああ、これならば富士そばで月見うどんでも啜ればよかった、と思っても後の祭りである。よっぽど残そうかと思ったけれど、私は家で食べる場合も、外食の時も、極力、残さず食べる主義なので最後のひとかけらまで口に運ぶ。なぜなら、もし、私が牛や豚に生まれたとして、食用にされてしまうのなら、せめて最後まで食べて欲しいと思うからだ。
私は動物が好きだけれど、生きていくにはたんぱく質も必要だ。だから、どんなに不味くても動物たちに感謝しながら食べている。お金を払ったのだからどれだけ残そうとこちらの勝手、という考えは嫌いだ。必要な分だけを自然の恵みから「分けていただいている」という気持ちを忘れている人間が多すぎると思う。
こういううんちくを言っているからダイエットなんか出来ないんだなあ、とつくづく思うけれど、間違っているとは思えない。
でも、今日のお店(すでに名前も忘れた)にはひとこと言いたい。
もし、私が牛や豚に生まれたとして、食用にされるとしたら、もう少しおいしく調理してはくれないだろうか?
食べられるために生まれたのならば、せめて「おいしかった」と言って欲しい。それが、食用となった動物たちに対するせめてもの供養とは言えないだろうか。
ちなみに期待していた「焼きたてパン」は可もなく不可もなくといったところ。マレーシア航空の機内食のパンの方がずっと美味しい。
しめて\950也。
というわけで今日のランチはわざわざがっかりしに行ったようなものだった。
エッセイのネタがひとつ出来ただけだ。
なんか、タイトル、いやらしいな。
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