ひとり暮らしに忍び寄る・・・



 ひとり暮しは気楽だ。何時に帰ろうが文句言われることはないし、風呂上りに素っ裸で部屋をうろつくこともできるし、 寝転がっておやつを食べても誰に咎められることはない。ひとりで過ごす週末の惨めさなんて、その開放感に比べればちっぽけなものだ。
 私はほぼ10年間ひとり暮しをしていたので、あの自由気ままな日々が、今でも時折懐かしくなる。けれど、それと同時にある出来事を思い起こす時、やっぱり結婚してよかったと、しみじみ思うのだ。
 それは、今の街に移って最初に住んだアパートでのこと。たしか、土曜日の午後だった。
 その日、当時付き合っていた彼氏が遊びにくることになっていたので、部屋で待っていたわけだが、途中、たばこが切れているのに気づいて私は外へ出た。距離にして、100メートルも ないだろう。一番近い自動販売機でたばこを買い、部屋に戻ってほどなく、ノックの音がした。
 てっきりその彼氏かと思い込み、私はドアに走り寄り、ノブに手をかける。と、その瞬間、外の通路に面したキッチンの小窓を見た私は震え上がった。
 そこに映る影は、彼のものではない。スモークガラスなのではっきりとした姿はわからない。かといって、宅急便屋さんでも郵便やさんでもない。
 その人物は、『ただ者』ではない。
 理屈ではなく、身体中の細胞が私にそう伝えていた。第六感というやつだろう。
 一瞬の判断で、私はドアではなく、その小さな窓を開けた。格子がついているので、押し入られることはない。 そして、そこには焦点の定まらぬ目が、2つあった。
「おるれのことおぼえてない?」
 言葉は呂律がまわっていない。見知らぬその男は、完全にらりっている。私はというと、足がすくみ、声もろくに発せられない。私が首を横に振ると、再び男は、
「おぼえてないの?」
「知りません」
 それだけ言うのが、やっとだった。
「ふーん」
 男は私の肩越しに部屋の中をじろじろと見渡す。
「じゃ、いい。またくる」
 未練がましく何度も振り返りながら、男はゆっくりと去っていった。男を刺激しないよう、そっと窓を閉めた後も、私は動けないでいた。けれども、まだ胸の奥で警鐘が鳴り響いている。
 何か、忘れている・・・・・・。
 次の瞬間、反射的に私はベランダに駆け寄った。窓が開けっぱなしのままだったのだ。
 恐る恐る下を覗いてみると、たばこをくわえたその男が、うらみがましく私の部屋を見つめ、立ちすくしていた。
 部屋が1階にあったら、どうなっていたことか!
 今度は思いきり激しく窓を閉め、厳重に鍵をかける。 ここは駅にも近く、商店街もすぐそこ。人通りだってけっこうある。大丈夫だ。そう自分に言い聞かせても、まだ恐怖感が身体の隅々に残っている。110番するべきかどうか、しばし考えた後、私はある電話番号をプッシュした。アパートのすぐ前の居酒屋さんである。親しくしている板さんが、そろそろ仕込みに入っている頃だ。
 運良く、店に来たばかりの板さんが電話口に出ると、ようやく安堵のため息が出た。
 一通りの事情を話すと、アパートの周りを見てくれるとのこと。ほどなく、板さんがドアの外で私の名前を呼んだ。例の男は既に立ち去ったようで、あやしい人物はいなかった。けれど、とりあえず警察に話しておいた方がよいとのアドバイスを受け、駅前の派出所へ行くことにした。
 何度も後ろを振り返りながらようやく辿り着き、状況と件の男の特徴を聞かれるがまま答える。おまわりさんはお釈迦様のように優しかった。
「おそらく、たばこを買いに出た時に跡をつけられたんですね」
 とおまわりさん。
「脅かすわけじゃないけれど、最近、多いんですよ、ひとり暮しの女性を狙った事件」
 何かされたわけではないので、被害届を出すことはできないけれど、しばらく重点的にアパート周辺をパトロールすると約束してくれた。そしてそれ以降、その男が私の目の前に現れることはなかった。

 もしあの時、ドアを開けてしまっていたら。もしも私の部屋が2階でなかったら・・・・・・。
 今、私が存在しているかどうかもわからない。そのことが尾を引きずっていて、今でもゴミを外に出しに行く時にすらしっかり鍵を閉めるようにしている。災難というのは、どんな隙を狙って忍び込んでくるものか、誰にもわからないのだ。
 10年間の歳月で学んだことは、ひとり暮しの侘しさを慰めてくれるのも人間ならば、恐怖をもたらすのもまた人間である、 という単純な真実だ。
 人を信じて傷つくのはよいけれど、簡単にドアを開けたりは絶対しないよう、ひとり暮しの女性の方々、重々気をつけてくださいまし。



 
 

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