譲れないささやかな贅沢



 私の住む街にはとにもかくにも美容院が多い。ほぼ30メートル毎に乱立している。これは決して大げさな表現ではなくて、本当の話。これ以上増えてどうする、と思うところなのだけれど、定期的にニューオープンのビラを貰うので、まだまだ打ち止めではないのだろう。いくら学生街で、居住人口が多いとはいえ、これで商売が成り立つのかとても不思議なのだけれど、次々に開店しているのだから、それなりにやっていけるのだろう。
 美容院選びというのは難しい。特に若造が多くはびこるこの街の、洒落たお店というのはこの年になると、なんとなく入りにくい。けれど問題は「店」そのものではなく、美容師さんとのコミュニケーションである。
 知らない人と会話するのはあまり得意な方ではないし、いちいちこちらの素性を明かすのも面倒だ。 どこの生まれでどんな仕事をしていて、何が趣味か、程度のことを把握してくれている人でなければ、精神的にも疲れてしまう。
 そんなわけで、私はほぼ10年同じ美容院へ通っている。 きっかけはずばり、ナンパである。亭主と知り合う前、今は閉店してしまった下北沢のロックン・ロール・ダイナーで飲んでいる時に声をかけてきたのが、たまたまこの街の美容師さんだったというわけである。ずっと彼に髪を切ってもらっていたわけだけれど、結婚を機に退職して自分のお店を持つことになり、彼は遠い街へ行ってしまった。代わって担当してもらっているのが、ナンパ当日、彼と一緒にいたNさんである。Nさんとは同郷で、音楽の趣味も合うし、気も知れている。私が結婚してからは、亭主も彼を指名するようになった。
 私のひどい肩こりもよくわかってくれているので、若いスタッフにマッサージをお願いする時は、
「うんと強くね」
 と、指示してくれる。この人と心に決めた美容師さんがいるというのは、心強いし、ささやかなれど贅沢なことだと思う。学生をターゲットにした安いお店はたくさんあるけれど、こればかりは譲ることができない。
 先日も髪を切りに行ってきた。見慣れない若い男の子がシャンプーをしてくれたのだけれど、ぎこちなく、段取りが悪い。
 ははあ、新人だな、とそのへんはあきらめたのだけれど、マッサージに至っては、力が弱く、ポンイトをしっかりはずしている。全然気持ち良くない。がっかりである。 まあ、これはサービスなのだから文句は言えないけれど。
 さてカットの後、染めてもらい、今回のメニューは終了。お会計の時、Nさんに言った。
「あの新人さんに、もうちょっとマッサージ教えてあげてよ」
 Nさんは笑って頷いた。そしてその後、信じられない告白を聞くのである。
「僕、今月いっぱいでこの店終わりなんです」
「え? ど、どこへ行っちゃうの?」
「はがき送りますから」
 Nさんは笑顔で言った。口ぶりからすると、別の街で働く心積もりらしい。なんてこと。いくらNさんがよくても、出不精な私たち夫婦が電車を乗り継いでまで髪を切りに行くなど、ありえない。
 美容院などいくらでもある。けれど、勇気を出してこじゃれた店に一歩踏み入れて、美容師さんと気心が知れるようになるまで、またいちからやり直しだなんて、考えるだけでうんざりする。
 私の美容院ライフは今後どうなってしまうのだろう???



 
 

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