(た)カラくじ狂騒曲


 今年もこの季節がやってきた。
 当たりっこないとわかっちゃいるけど、買わずにはいられない。
 銀座のチャンスセンターの長い列の最後尾につく。毎度1番、7番窓口は大混雑なので、無難に2〜5番のなるべく短い列を選ぶ。それでもちまちまちまちま。なかなか進まない。一服したいところだけれど、並んでいる時は禁煙(実は、隣で吸っていたおじさんが怒られているのを見て、今回初めて知った)。
 銀座の喧騒の中、高層ビルを見上げながら20分。ようやく窓口に到達した。 今年はバラ50枚、連番20枚。合計21,000円也である。
 さて、ここ数年の結果は、というとあまりぱっとしない。もっとも、その前の数年、その又以前だって、せいぜい3,000円がいいとこで、ほとんどかすりもしないのだ。これぞ宝くじならぬ、カラくじである。

 人間には2種類ある。クジ運が良い人と、悪い人で、私は間違いなく後者の方だ。なのに年の瀬が近づき、ニュースで宝くじ売り場の行列を見ると、ざわざわと心が騒ぐ。まったくもって根拠のない予感が胸をよぎる。
「今年こそ」
 と。
 きっと誰もが同じことを繰り返しながら、師走を迎えるのだろう。
 亡き父も宝くじが好きだった。私が上京してからは、毎年、帰省の日が近づくと、電話がかかってきたものだ。
「お金は振り込んでおいたから、宝くじ、よろしく」
 思い返してみれば、父が私に電話をかけてくるなんて、この時だけだった。
 晩年、一度だけ組番違いを当てた父は、10万円は安すぎる! と散々嘆いた末、ついぞ大当たりを手にすることなく逝ってしまった。
 やはり、父親に頼まれて毎年宝くじを手土産に帰省していた友人は、正月間際に亡くなった父親の棺に、最後の宝くじを入れてあげたのだそうだ。
「もし、あれが当たってたらどうしよう・・・・・・」
 そう言って青くなる彼女に対し、
「もう済んだことだし。まあ、そういうのに限って当たってる可能性が高いんだよね、うん」
 と、慰めにも何にもならない言葉をかけてあげたものだ。いずれにしろ、今となっては知るすべもない。

 数年前、とあるお寺の坊さんが、一等だか二等を当て、全てをボランティアに寄付した直後、またまた別の宝くじで大当たりを出したという話がある。
 神様はちゃんと見てらっしゃる。欲のない人に当たるようにできているのだ。私のように煩悩にまみれた人間には、そんな棚からぼた餅的なことは起こらないようになっているのに違いない。
 ああ、でも神様、もし5,000万円以上当てたなら、一部は必ず不幸な動物たちのために使うことをここに誓うので、どうかどうか、一度くらいはチャンスを下さい。


 


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