GODZILLA RHAPSODY, 2000

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 東京方面へ向かう高速道路を走り続けながら、僕はラジオのスイッチを入れる。
 ゴジラ情報は入り次第お伝え致します……音楽、ヴィバルディの『春』……ゴジラ情報は入り次第……僕はスイッチを切った。当り前だ。どんなに勤勉で優秀なアナウンサーだって、悠長にニュースを伝えている場合ではない。ラジオの電波が通っているだけでも奇跡なのだ。そして、どうにも変えようのない現実が、延々と繰り返されるテープの声をも消し去ってしまうのだって、時間の問題だった。
 反対車線に目をやると、隙もなくぎっしりと、大小様々な車でごったがえしている。やはり、中には誰も乗っていない。皆、自分の足で逃げ出してしまったのだろう。
 ヴィバルディか、と僕は思った。僕ならもっと気の利いた曲を選んだろう。
『運命』? 『ジ・エンド』? 『天国への階段』? 違うな。僕は最後に一本残っていた煙草をくわえたまま考え込んだ。ライターに手を伸ばしかけて、思いとどまった。この先、自動販売機が残っているかどうかわからない。仕方なく煙草を箱に戻し、胸のポケットにしまった。音楽は、そうだあれがいい。
『デイ・ドリーム・ビリーバー』―ザ・モンキーズ。
 空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうに見える。ゴジラ見物にはうってつけの日だ。ゴジラに青空と太陽とそよ風は似合わない。
 僕はそれが初めてテレビのニュースで流れた時のことを思い出す。無理もないことだけど、妻があれほど取り乱した姿を見たのは初めてだった。3歳になる息子ははしゃぎながら、テレビを食い入るように見つめている。西暦2000年。3歳の子供はゴジラを知らない。妻は立ち上がり、押し入れからスーツケースを引っ張り出し、引き出しという引き出しをひっくり返し始めた。時折、ひょっとしたら、という表情で画面に振り返り、それが真面目なニュースであると確認すると、すぐさま顔を背けた。まるで幽霊でも見たかのように唇を震わせ、涙ぐんでさえいる。
 もちろん、僕だって驚いていた。僕はもう、わくわくと胸を躍らせながらスクリーンに釘づけになっていた少年ではない。あさってのクリスマス・イヴには、サンタクロースに化けて息子を喜ばせてあげなければならないのだ。だけど、正直言うなら、僕はほんの少し懐かしい気持にもなった。『ゴジラ』を観た帰り道、身体が何倍も大きくなったように錯覚したこと。拳を振り落せば、どんなものでも簡単に壊せそうな気さえした。子供の頃の話に花が咲くと、どんな仲間うちでも必ず一度は登場したゴジラ……。
 けれど、そんなノスタルジックな想いはすぐに吹き飛んでしまった。今、テレビに映るゴジラは、当然のことながら、昔観た映画の中のゴジラよりもずっと鋭敏に動き、凶暴で、逃げ惑う人々の顔は真剣だった。レインボー・ブリッヂがあっけなくゴジラに踏み潰されたところで、僕はとうとう泣き始めた妻を落ち着かせ、息子に着替えをさせた。
「大丈夫だよ」
 と僕は妻に言った。
「ここは東京からずっと離れているんだぜ」
 妻は目を見開いてどなり返した。
「どんなに離れていようと関係ないわ。日本は狭いのよ。あんな何百メートルもある怪物なのよ。駅前まで散歩に来るようなものよ」
「100メートル」
「何がよ」
 妻はいよいよしゃくり上げ始めた。
「ゴジラの身長さ。もっとも初期の作品の頃は50メートルくらいの設定だったんだけどね。周りの建物が大きくなりすぎたんだな。都庁を壊すには少々迫力が足りなくなったんだよ。だからゴジラも核爆弾の放射能を浴びたということにして、倍近くも大きくさせたんだ。はと胸のゴジラなんてさ、なんだか情けなかった。だいぶ後の作品では……」
「よくもそんな暢気なことが言っていられるわね」
 妻は憎々しげに僕を睨みつけながら言った。しかしながら決定的に僕が不利な立場に追い込まれそうになった言い争いも、続行不可能となった。テレビの画面は、牙を剥き出しにしたゴジラの顔のアップを映したかと思うと、地響きを思わせる不気味な叫びとともに、砂の嵐にとって代わった。僕たちはしばらく身動きもできずにジーという耳障りな音を聞いていた。
「車を出して」
 最初に気を取り戻したのは妻の方だった。妻はエプロンで涙を拭うと、てきぱきと身の回りのものをスーツケースに詰め込み始めた。
 運転席に乗り込み、幾らか気分が落ち着くと、今度は何か釈然としない想いが、濃い霧がたち込めるようにじんわりと、僕の身体中に拡がっていった。僕はこれまでの人生で味わってきた、ありとあらゆる感情をそれにあてはめようとしてみたけれど、どれもしっくりこなかった。強いて言うなら、がっかりした気持に似てはいた。
 突然の大騒ぎに、ただならぬ気配を感じ取ったのだろう、息子はまるで火がついたように泣き始め、それを叱り飛ばす妻の、悲鳴に近い声が車の中にまで届いてくる。やれやれ、あれじゃ逆効果だ。息子にしてみれば、正気を失いかけた母親の方が、ゴジラなんかよりずっと恐ろしい存在なのに違いない。髪を振り乱し、目を吊り上げ、自分の息子にあたり散らす母親。その姿は、僕が期待していたものとは違っていた。
 ……期待? 僕は何を期待していたというのだろう。逃げ切れるか殺されるかの瀬戸際に、笑顔を期待する僕の方が絶対に間違っている。
 でも僕は期待していたのだ。
 一体、何を?
 僕は記憶の糸を解きほぐしながらエンジンをかけ、ガソリンが満たんであることを確かめた。
 遠い過去の何処かに置き忘れてきた、古く、せつなく、美しい何か。ゴジラが本当に現われた。プラスチックでもウレタンでもない、本物のゴジラが現実に出現したのだ。
 妻が両手に荷物を抱え、あたふたと玄関から出てくるのをバックミラーで確認し、僕はうんざりとした気分でギアを入れる。恐怖心がないと言えば嘘になる。僕の今の生活、仕事、そして家族。守らなければならないものは山程あった。妻は泣き腫らした眼でバックシートに乗り込み、まだぐすぐすと鼻をすすっている子供を膝の上に抱きかかえると「早く出して」とどなった。
「何処に逃げますか?」
 僕は煙草の煙を吐きながら訊いた。
「猪苗代。父の別荘があるわ」
 僕は何も答えずにウィンカーを出し、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
 ひと言も口をきかないまま車は北へ向かう高速道路に乗った。五秒おきに妻は溜め息をつき、息子は柔らかな寝息をたてている。
「音楽でもかけようか」
 僕は試しに言ってみた。
「黙って運転して」
 妻はあっさりと答えた。
 けれど運転し続けるわけにもいかなかった。人間なんて、いざという時には皆、同じ行動に出るものだ。走り出して僅か三十分。目的地は遥か彼方。道路は、絶望的な渋滞に陥ってしまった。
「一足遅かったかな」
 僕は煙草に火をつけながら言った。妻は何も言わず、うらめしそうに空っぽの反対車線を眺めながらポットのコーヒーを一口飲み、残りを僕に手渡した。
「今、どのあたり?」
「ずっと前、にじますを釣りに来ただろう。あの辺り」
 僕は適当に答えた。
「まだそんなところなの」
 妻は髪をかき上げながらうつむいたきり、しばらくそのままの姿勢で身動きひとつせずにいた。呼吸さえも止めているんじゃないかと思った。
 僕は苛々しながら前の車のテールランプを見つめ、ひっきりなしに煙草を吸った。妻は忌々しそうに煙を手で払いのけ、窓を開けては車内の空気を入れ換えている。その度にヒステリックなクラクションの音が僕の耳に流れ込んできた。
 僕は一体何をしているのだろう。ふと、そう思った。逃げているのだ。何から? ゴジラから。
 しっくりこなかった。どうしても納得がいかなかった。そうしないわけにはいかなかったにせよ、どこか間違ったことをしているようなうしろめたさを拭い去ることができなかった。深い霧の中から、誰かが僕を呼んでいるような気がした。
 ゴジラが、あのゴジラが本当に現われた。それが事の起こりだ。ゴジラが現われた。ゴジラが……「ゴジラが本当に現われたら、あなたは、逃げる?」
 それは突然、胸の奥底から湧き上がり、頭の中に響き渡った。前世から聞こえてきたような声だった。僕は心臓が急に速く脈打ち出したのがはっきりとわかった。怖いような、わくわくするような、不思議な感覚だった。それは僕がここ何年も感じることのなかった、あるいはできなかった類のものだった。そうだ、間違っている。ゴジラが現われた時、僕は……。
「見に行くよ」
「逃げないの?」
「逃げるわけないさ」
「きっとね」
「もちろん」
 僕は僕を呼ぶ声の主を、やっと思い出した。


 


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