GODZILLA RHAPSODY, 2000

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 僕と彼女はベッドの中でゴジラシリーズの第二作『ゴジラの逆襲』を観ていた。僕らは恋人同士になったばかりで、出逢った日に約束したゴジラのビデオを持って、僕は初めて彼女のアパートを訪れた。彼女の部屋を、はっきりと思い出すことはできない。けれどテレビの上に置かれた三体のミニチュア怪獣の名前なら今でも覚えている。
 ケムラーとレッドキングとチャンドラー。
 永遠なる我らのウルトラマンに敗れた愛しきスター怪獣たち。僕らの夢。少年の日の輝きのかけら。
 ゴジラが氷山に生き埋めにされ、映画が終わってしまうと、彼女は大きなマグカップにコーヒーを入れてくれた。僕はベッドの中でコーヒーを飲み、巻き戻しの終ったテープをもう一度流し、白黒の画面で闘う二頭の怪獣たちを眺めた。まだ50メートルの身長しかなかったゴジラと、後にゴジラの仲間となったアンギラスだ。
 彼女はマグカップをテーブルに戻すと、肩まですっぽりと毛布を被り、鼻の先を僕の身体にこすりつけて寝息をたて始めた。しばらくして僕はテープを止め、テレビを消した。
 彼女の肩にそっと腕を伸ばすと、彼女はちょっとためらってから重たそうに頭を上げ、僕の肩に頬を乗せた。彼女は眠ってはいなかった。そして大きなため息をつきかけ、途中で急に息を止めた。
 ひとつため息をつく度に、幸せもひとつ逃げてゆくのよ。彼女は囁くようにそう言った。僕は腕に力を込めて彼女を抱き直した。すると彼女は突然ぱっちりと目を開き、子供のように無邪気な笑みを浮かべた。
「ねえ、ゴジラが本当に現われたら、あなたは、逃げる?」
 彼女ははしゃぐようにそう言って僕を見上げた。
「見に行くよ」
 僕はきっぱりと答えた。
「逃げないの?」
 彼女は不安そうに訊いた。
「逃げるわけないさ」
 十年前。僕はまだ、若くて、自由で、力もあって、怖いものなど何もなかった。
「きっとね」
 彼女は再び微笑んだ。
「もちろん」
 僕は彼女の髪を掬い上げ、指にからませながら目を閉じた。
 1990年。僕には、本当に怖いものなど何もなかった。

 猪苗代湖畔にある義父の別荘に着いたのは翌日の昼近くだった。半日以上も運転していたせいで、僕の身体はぐったりと疲れきっていたけれど、心はそわそわとして落ち着かなかった。妻が車から荷物を下ろしている間、僕は人影ひとつない湖を眺めながらぬるくなったコーヒーを飲んだ。
「そんなところでぼーっとしていないで、手伝ってよ」
 妻の声にはようやく安堵の色が滲んでいた。
「ここからビオランテが現われるかもしれないな」
 僕は湖を見ながら言った。
「何よ、それ」
 妻が再び声のトーンを高めた。
「何でもないよ」
 妻の神経を逆撫でしたくはなかったので、説明するのはやめておいた。「ただの植物さ」
 妻がスパゲティーを茹でている間、僕は窓際のソファで外の景色を眺め、ビオランテのことを考えた。
 芦ノ湖に突如出現した、ゴジラ細胞と薔薇と人間の心の融合生物ビオランテ。己の分身を倒すべく三原山から復活したゴジラ。ラストシーンでは、ビオランテの魂は天に昇り、ゴジラは僕らに背を向けて、聞き分けの良い子供のように歩み去っていった。それから次の年にはキングギドラが現われて……。そこまで考えたところであきらめ、僕は目を瞑った。妻が缶詰を開ける音が聞こえる。息子は初めての場所に興奮し、そこら中を走り廻っては、妻に叱りつけられている。
 未来人に操られて日本を襲ったキングギドラ(この時はやたらと弱かったっけ)。ビキニ島水爆実験の放射能を浴びてさらに巨大化した、はと胸のゴジラ(かっこ悪かったな)。眠りを覚まされたゴジラは永遠の宿敵に挑んでゆき、死闘の末、キングギドラとともに海の底に沈んでいった。そして次はモスラがバトラと共謀して大観覧車をゴジラに投げつけて(痛かっただろうに)……その次は?
 僕は眠れなかった。
「ビールはあるかな」
 あるわけないと思いつつ、流し台で皿を洗っている妻の背中に向かって訊いた。妻はゆっくりと振り返ると、冷ややかな視線を床に落とし、低い声で言った。
「クーラーボックスの中よ」
 床の上には実にいろんな食料品が散らばっていた。あれだけ短い時間によくもこれだけ詰め込んだものだ。インスタントラーメン、レトルトのカレー、災害時用の乾パン、缶詰のビーフシチュー、どこかの結婚式でもらった引き出物のかつお節、脱臭剤まであった。
 僕は缶ビールを開けて一人で飲んだ。ミートソースを温めながら、妻はレタスやほうれん草を、われものでも扱うようにていねいに新聞紙でくるみ、冷蔵庫にひとつひとつをしまった。冷たいビールのおかげで、どっぷりと身体中に染み込んでいた疲労が少しづつ流れ出ていった。だいぶ頭の中がすっきりすると、眠りかけた記憶が再び鮮やかな映像となって、まぶたの裏に浮かび上がった。
 彼女の部屋には、保存食品なんてなかった。料理が上手くて、怪獣が好きで、いつもでたらめな英語の歌を口ずさんでいた無口な女の子。それが、僕の覚えている彼女のすべてだった。こうしてゴジラが姿を現わさなければ、一生思い出すことすらなかったかもしれない。けれど、彼女は確実に僕の人生のひとかけらとしてひっそりと息を潜め、待ち続けていた。彼女は呼吸を吹き返し、今、僕を支配しようとしていた。
 僕はそっと目を開けて、薄暗い空を見上げた。ゴジラが空を飛んだのは『ゴジラ対ヘドラ』の時、ただ一度きりだった。猫のように背を丸め、放射能火炎のジェットで後ろ向きになって飛ぶゴジラの姿に、すごくがっかりしたのだと彼女は言った。
「ウルトラマンは空に帰り、ゴジラは海に眠る」
 彼女と知り会う少し前に公開された『ゴジラ対モスラ』も、ビデオを借りて彼女の部屋で観た。モスラとバトラによって、再び海に沈められたゴジラを見て彼女は訊いた。
「何故だと思う?」
「さあ」
 僕はあいまいに答えて、毛布を頭まで被った。
「帰巣本能よ。生命は水から生れたのよ」
 僕は返事に困ってそのまま眠ったふりをした。彼女は何かを言いかけたけれど、僕のたぬき寝入りにつきあってテレビを消し、毛布にもぐり込んだ。

 帰巣本能……僕は身体を起こした。彼女の声がすぐ耳元で聴こえたような気がした。僕は頭を強く振って、ゆっくりと深呼吸をした。テーブルにはすっかりおとなしくなった息子が行儀よく腰掛け、妻は湯気の立ったスパゲティーを皿に取り分けている。それは既に、僕のいるべき風景ではなくなっていた。僕はようやく気がついた。僕は逃げるべきではなかった。これが恋のかけひきのひとつも知らぬ不器用な少女にやっと思いついた、最後の賭けだったとしたら、僕はその賭けに負けたのだ。全身に漲るエネルギーがそれを伝えていた。僕はゴジラに会いにゆくべきだったのだ。何もかも初めから決まっていたことなのだ。
 僕はスパゲティーを横目で睨みながら残ったビールを飲み干した。
「食べないの?」
 妻はすでに子供と自分の口の交互にスパゲティーを運んでいた。
「出かけてくる」
「何処へよ」
 妻はさして関心のなさそうに言って、フォークの先でスパゲティーをくるくると丸めた。
「東京」
「東京!?」
 フォークを乱暴に皿に戻し、妻は声を上げて立ち上がった。そして数秒立ちつくしてから
「冗談はやめて」
 と声を落とし、椅子に座り直した。
「ゴジラに会ってくる」
「そう」
 妻はスパゲティーを食べ続けた。
「車を使っていいかな」
「ご自由に」
 ナプキンで口を拭きながら、妻はそっけなく言い放った。
 僕は口のまわりがミートソースでべとべとなった息子の頬を撫で、ジャケットをはおった。
 車に乗り込み、僕は再びエンジンをかけ、クラッチを踏み込んだ。遠く離れた廃墟の街から僕を呼び続ける声に向かい、僕は車を動かし始めた。
 まだ東京に住んでいた頃、酔って帰る路上で、僕はよく空を見上げた。夜通し絶えることのないネオンはいつでも誰かが側にいることの証だった。都会の空には『暗闇』がなかった。街の灯りを反射した空は、どんなに悲しい夜でも明るかった。あの空の色を、僕は忘れてはいない。酔っ払いのざわめきや、スナックから漏れてくるカラオケの音を子守歌がわりに聴いて眠った日々。僕の目にはいつの間にか熱いものがこみ上げてきたけれど、まだ早いと思い、唇をきつく噛み絞めた。


 


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