GODZILLA RHAPSODY, 2000

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 見知らぬ惑星に漂着したのかと思った。
 建物という建物は崩壊し、あるいは大部分が破損し、巨大なコンクリートの塊がごろごろと転がっていた。道路はまんべんなく、がらくたやらガラスの破片やらで覆われている。あてにしていた線路は、軟体動物のように、見事なまでに曲がりくねっていた。ゴジラの放射能火炎のせいだろう。見る影もないとはこのことだ。
 ゴジラは何処にも見当らなかった。けれどゴジラが田舎へ逃げた人々を追いかけていったとは考えられなかった。
 破壊すべきものがないところにゴジラは必要ない。
 崩れ去るべきものがない場所にゴジラの存在価値はない。
 僕はバイクから降りてなるべく走り易そうなところはないかとあたりを見回し、すぐにあきらめ、溜め息をついた。その途端、瀕死の動物の鳴き声のような音を最後に、バイクのエンジンが止まった。
 すべての音が消え去った。背筋が寒くなるほどの沈黙の世界で、僕は、ひとりぼっちだった。
 僕は愕然としてバイクもろともその場に崩れ落ちた。東京へはどうにか来てみたものの、こんな状態で一体どうしろというのだろう。逃げきることもできず、ゴジラに踏みつけられることすらできず、ただ僕だけがひとり、阿呆のように見捨てられた街にうずくまっているなんて。
 意識が朦朧とし、目が霞んだ。まるで魂が流れ出てゆくかのように、身体中の力が抜けていった。あちこちの傷口から血が溢れ続けている。僕の脚はもう二度と、この地を踏むことはないのだろうとさえ思った。これが限界なのだろうか。もうだめだ。立ち上がることなんてできやしない。やれるだけのことはやったんだ。もう十分じゃないか。僕は冷え切った手を擦り合わせ、ズボンのポケットにすべり込ませた。
 そして、今度は唖然とした。
 僕は、勃起していた。
 今まさに葬り去られようとしている都会の片隅で、すぐ目の前で揺れ動く死の影に、なすすべもなく覆い尽くされる瞬間を待ちながら、誰にも看取られることなく消えてゆくことだけを確信しているこの僕が、馬鹿馬鹿しいことに、勃起していた。全身感覚を失った僕の、ほんのひとかけらに過ぎない部分には、それでも血が通い、脈を打ち、生きることをこんなにも切望している。僕は自分の身体でありながら、初めて見た生物に触れるかように恐る恐る、確固たる意志を持って死の前に立ち塞がったそれに手を乗せた。僕は冷えきった指先ではっきりと感じていた。僕の掌は、今、厳かなる生命の滾りの上に在るのだと。
 そうだ……。似たような話を、彼女から聞いたことがあった。
 彼女の、あれは何歳の誕生日だったのだろう。僕がプレゼント代わりに買ってきた、飲み慣れない高級ワインのせいなのか、彼女は珍しく饒舌で、あからさまに初体験の話を僕に語って聞かせた。
 それより数年前、スキーに行った彼女は、ほんの気紛れでコースから外れ、突然天候が変わり、偶然近くを滑っていた見知らぬ男と今にも吹き飛ばされそうな山小屋で一晩明かしたという。
「眠らないようにいろんな話をしたわ。彼の話はすごく楽しかった。でも本当はおもしろくもない話だったのかもしれない。でも笑っていないとどうにかなりそうだった。信じられないんだけど、その時私ね、どうしようもなくしたくなっちゃったの。優しいけれど、熊みたいな体形のその男とよ。心の中じゃ、冗談じゃないって、思っていたのにだめだった。どうしてもだめだったのよ」
 彼女の様子に気づいた男は口を閉ざし、そっと彼女の手をとって、ぶ厚い胸に抱き寄せた。彼女は導かれるまま、もはや抑制の効かなくなった身体を、運命もろとも男に預けた。 「死を眼の当たりにすると、すべての生物にはなんとかして子孫を作ろうとする本能が働くんだって。生命のかけらを、この世に残してゆこうとするのよ」
 僕は二本目のワインを開け、空になった彼女のグラスに注ぎ入れた。
「生きるってことは……」
 彼女はそれを一息で飲み干すと、独り言のように呟いた。
「死んでしまいたいという欲望から、逃げ続けてゆくことなのね」
 甦る彼女の言葉は、どんなビタミン剤よりも僕を力づけ、怖じ気づいた僕を恥じ入らせた。
 僕は逃げたりはしない。言い訳なんか通用しないところまで、僕は来てしまったのだ。たとえそこに死が待ち構えていようと、きっと辿り着いてみせる。まだ、行かないでくれ、ゴジラ。僕は逃げない。お前の姿を、この眼で見届けるまでは。
 僕はあえぎながら立ち上がり、棒のような脚でしっかりと、でこぼことした地を踏みしめた。かすかな記憶と勘を頼りに、とりあえず新宿へ向かってみることにした。都庁の展望台に上れば、ゴジラの居場所がわかるかもしれない。僕はジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま歩き続けた。既に夜になっていることにすら、気づくことなく。
 何時間たったのだろう。そろそろ水道橋あたりだろうか。
 焼き尽くされて骨だけになった東京ドームが見える。あわれなビック・エッグの残骸は、いつまでたっても僕に近づいては来ず、僕は歩いているつもりでいて、一歩たりとも前に進めずにいることに初めて気がついた。吐き出す息は白く濁って、僕はこんなにも疲れ切っているのに、まだこの身体には熱があり、呼吸をしていることを誇らしく思った。
 ひっくり返った自動販売機を見つけると、僕は両手をついて地を這った。何本かの缶ビールが灰にまみれて転がっていた。僕はビールを拾い上げ、ジャケットの袖で汚れを拭き取り、プルトップを開けた。開けた瞬間、僕の身長を軽く越す高さの泡が吹き上がった。僕は濡れた顔もかまわずに気の抜けたビールを一気に飲んだ。
 一息ついた後、手探りでもう一本ビールを拾い、放心状態で開けたせいで僕の顔は再び泡だらけになった。月光りを頼りに、顔をひびの入ったガラスに近づけてみると、真っ黒に汚れていた。
 それから僕は息子と、今日彼に買うはずだったクリスマス・プレゼントのことを考えた。今、どうしているのだろう。僕はジャケットのジッパーを上げて横たわった。
 心配するなよ、と僕は声に出して言った。
 心配するなよ。ひとつだけやり残したことがあるだけさ。忘れ物を取りに戻るんだ。お前に父親として人生とはどうのこうのと語って聞かせることができるのは、それからなんだ。
 十秒とたたぬうちに、僕は深い深い眠りの底に堕ちていった。


 


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