GODZILLA RHAPSODY, 2000

***************************************************

 

 あまりの寒さで目を覚ますと、うっすらと明け始めた空は今日も暗くて、冷たくて、やはり不気味な音を轟かせながら風が通り過ぎていった。僕は、立ち上がることができた。そっと片足を踏み出した。僕は歩ける。まだまだ、きっと、何処までも。
 見覚えのある居酒屋の看板が転がっていた。映画の広告パネルも、それより大きな瓦礫の下敷きになっている。それらの陰にテニスラケットや英語の辞書など、こまごまとした物が顔を覗かせている。そういった物を持ち歩く世代の若者が集まる街なのだ。今にも彼らの調子っぱずれな歌声やらかけ声やらが聴こえてきそうだった。
 崩れ落ちた看板の数を数えながら、以前なら目を瞑ったままでも歩けた繁華街を通り抜け、ようやく大久保通りに出た。僕はほっとして、高層ビルが立ち並んでいるはずの西の空に目をやった。
 が、そんなものはなかった。
 霧と埃と、焼け野原から立ち上る煙が混ざり合った灰色の空間が無限に続くだけだった。
 やってくれたな、と僕は思った。
 本当に都庁までも壊しちまったんだな。あれは、キングキドラの時だったっけ。映画館の中で手をたたく者すらいたじゃないか。
 やってくれたな、ゴジラ。何もかもきれいさっぱりなくなったよ。そもそも始めから何もなかったんだ。空があって大地があって鳥が歌って魚たちは大海を自由に泳ぎ回っていただけだ。そして僕たち人類は、恐る恐るこの地上に足を踏み出し、歩き始めた。僕は高層ビルがあったはずの、暗い空間を見つめた。
 すがすがしい気分だった。あんなに高く登りつめる必要なんてなかったのさ。人間はきっと天に近づき過ぎたんだ。神の領域にまで、土足で踏み込もうとしていたんだ。ゴジラは地球を滅ぼしにやって来たのではない。すべてを元通りにするために現れただけだ。それが、僕らの戻るべき場所なのだ。
「なぜ逃げない?」
 地の底から湧いてきたような低い声だった。振り向いても誰もいなかった。瓦礫の山が見えるだけだ。
「死ぬのが怖くないのか?」
 よく見ると、瓦礫とほとんど区別がつかない程薄汚れた浮浪者がいた。彼はぼろぼろになった布袋からカップ酒を二本取り出し、一本を僕に差し出した。
「ゴジラはどこですか?」
 僕は試しに訊いてみた。浮浪者はガラスの破片など気にもとめずにその場に座り込み、首を横に振った。
「もう用が済んだんだろう。少なくとも東京ではね」
 彼はそう言って酒を一口飲んだ。
「最後に風呂に入ったのは五年前だ。石鹸で髪を洗ったんだ。嘘みたいに頭が軽くなったよ。あん時以来だね。すっきりした気分なんてよ」
「ゴジラはどこですか?」
 僕はもう一度訊いた。浮浪者は首を振るだけだった。僕は彼に背を向けてあてもなくよろよろと歩き始めた。
「みんな集まってるよ」
 僕は振り向いた。
「羽田埠頭。ゴジラはそこにいるよ」
「何故知ってる?」
「なあ、俺は二十年ここに住んでるんだ。最初の頃は夜が来る度耳が麻痺しそうになったもんだけどな」
 そう言うと、浮浪者はぞっとするような声で笑い始めた。僕は素直に納得して頷いた。浮浪者は笑い終わると僕のことなどすっかり忘れてしまったかのようにそのまま口をつぐみ、ぽかんと空を見つめながら二本目のカップ酒の蓋を開けた。彼にとっては、僕の存在にしても始めからなかったものだったのだろう。
 僕は生温いカップ酒を一気に飲み干し、空き瓶を浮浪者が眺めている空に向かって思い切り放り投げた。瓶は空に届くはずもなく、小さな半円を描いて地に落ち、二十数時間前の大騒ぎに比べれば、実にみすぼらしい音をたてて砕け散り、巨大な廃墟の一部になった。
 羽田埠頭には二、三度釣りにいったことがある。釣りといったってたいしたものが釣れるわけじゃない。稚魚がたまにひっかかるといった程度のもので、運が良ければ頭の悪そうなボラが釣れた。
 彼女はもう、すぐ側にいる。
 彼女はそこにいる。
 羽田埠頭にきっと、いる。
 僕は彼女と過ごした数か月を、今、はっきりと思い出すことができる。
 彼女はすべてを理解していたのだ。ずっとずっと、僕の中に存在し続けることを。ゴジラが僕らを再び引き合せることを。蘇って、僕の目を覚まさせ、動かし、いつかまた、あのラプソディーを口ずさむことを。
 急がなければ。僕は海に向かって駆け出していた。
 道なき道を走り続けた。走るというより、まるで登山みたいだ。けれど僕は立ち止まらなかった。もう何も悩むものか。僕はゴジラに会える。会ってみせる。
 まるで『走れ、メロス』だな。そう思って、吹き出しそうになった。メロスでもいいさ。嘲笑われても、僕は誰も責めることはできない。走り続けるだけだ。
 真っ二つに折れ曲がったフェリーを見て、僕は立ち止った。汗をぬぐい、ジャケットを脱ぐと、冷たい海風が濡れたシャツに染み込んだ汗を乾かし、体を震えさせた。すでに感覚のなくなった両脚に少しづつ神経が戻り始めると、思わず膝が崩れ落ちそうになった。僕は破裂寸前の心臓に手をあてて、ゆっくりと顔を上げた。

 ゴジラは、僕のすぐ目の前にいた。


 


TOPHOMENEXT