Innocent Pearl

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 貴女、大丈夫? ずいぶん飲んだみたいね。何も食べていないんじゃないの? ねえ、身体に良くないわ。サンドウィッチくらいお食べなさいな、ここのローストチキン・サンド、結構おいしいのよ。ごちそうしてあげるわ。
 いらない? だめよ、飲む時はきちんと食べなさい。ダイエットでもしているの? 太るのを気にするくらいなら、飲まなきゃいいのよ、そうでしょう?……
 ……そうね、おばさんには関係ないことね、ごめんなさい。お節介だったわ。
 恭ちゃん、ジム・ビームをもう一杯ちょうだい。雨が強くなってきたみたいね。音楽のボリュームを下げてくれる? 雨音を聞きたいの。梅雨は大きらいだけれど、秋の夜長に降る雨って、いい風情じゃない。
 ……え、なあに? いいのよ、本当のことですもの。もう、りっぱなおばさんよ。あやまることないわよ。私がいけないんだから。よけいなこと言って、悪かったわ。
 ねえ、よかったら一杯ごちそうさせて。何にする? ……ファジー・ネーブル? 聞いたことがないわ。私、カクテルってよく知らないのよ。まあいいわ、恭ちゃん、それをあげて。
 あ、このマスターね、恭ちゃんっていうの。私たち、同窓生なのよ。もちろん生まれ育ったのはずっと遠い街。山に囲まれた、映画館のひとつもないさびれた田舎町よ。二人とも別々の運命に導かれて、翻弄されたあげくこの街に流れてきて、偶然この店で再会したの。
 ちっとも不思議じゃないわよ、日本なんて狭いもの。それで、どう、少しは食べる気になった?
 そう、よかった。ねえ、チキン・サンドを作ってあげて。あとはそうね、シーフード・サラダとポテトもお願い。いいからいいから、若いんだもの、どんどん食べて、飲みなさいな。お会計のことは気にしないで。
 うんうん、わかっていたわ。若い女の子がひとり、カウンターに突っ伏して泣きながらお酒飲んでいるなんて、他に理由なんてないもの。そんな。みっともないだなんて、思わないわよ。何も楽しいことがないって、ため息つくよりも、ふられて傷ついて泣いている方がずっと素敵よ。いつかそう思えるようになるわ。
 自然消滅だったの? いやね、一番いやなパターンよね。私にもあったわ。ずっと昔のことだけれど。自分は『さよなら』すら言う価値もない女だったのかって、真剣に落ち込んだわよ。それも一度や二度じゃない。だから本能的に別れを悟るようになったわ。
 恋が終盤に近づくとわかるのよ。相手が逃げる準備を始めているのが。ずるいわよね。そう、男らしくないのよ。でも彼らが正しかったかもしれないわね、今、考えてみると。自分があれほど執念深い女だったなんて、思ってもみなかったもの。きちんと別れを告げてさえくれれば、素直に身を引く心構えはあったのよ、その頃は。要するに、私にしても、それほどその男に執着していなかったってことよ。
 もちろん、死ぬほど泣いたわよ。やけになって、ゆきずりの男ともずいぶん寝たわ。身体が淋しかっったからって? まさか。恋の痛手を治すには、新しい恋が一番。だから誘われるまま、初めて会った男とも、その夜、寝たわ。断るのが怖かったのよ。これきり終わってしまうと思って。藁にもすがる気持ってやつ。でも朝が来れば、はい、さよなら。みんなみんな、同じ。セックスしたいだけだったのよ。
 寝ようが寝まいが、結果はそう、同じ。馬鹿みたい。何度もそんなこと繰り返したの。でも今度こそはって、いつも思ってた。恋で泣いた人間は、いつかきっと恋で笑う。そう信じていたわ。そうして巡り会ったのが主人だったのよ。
 失恋ねえ、なんだか懐かしい響きじゃない。馬鹿にしてるんじゃないのよ。私くらいの歳になると、縁のない言葉だから。似たような出来事が身の上に起こったとしても、もっと別の言い方、なんかこう、もっとどろどろした言葉に置き換えられちゃうものなのよね。歳をとるって、そういうことなのよ。だから、そんな過去も、悪い思い出じゃないわ。
 サンドウィッチが出来たわ、食べなさい。実を言うと、これ私のオリジナルなのよ。ずっと前にね、ここで常連さんと料理の話をしていた時に、恭ちゃんたら、そ知らぬ顔して、しっかり聞いていたのよ。次の夜、店に来たら、ちゃっかり新メニューに加わっているんだもの。してやられた、って感じ。さあ、お食べなさい。フレンチ・マスタードをたっぷり効かせるとおいしいわよ。
 私? 私はいいの。ここのところ、胃の調子がよくないのよ。ふふふ、だったら飲まなきゃいいのにね。お酒飲むときはきちんと食べた方がいいなんて、あなたには言ったくせにね。それでもやめられない、もう生活の一部。でも空気を吸うとか、お水を飲むとか、生きていく上で絶対に必要なこととはちょっと違う。何て言うのかな、いつも側にいて、ちょっとばかし生きる力を分け与えてくれる存在。人生最後にして最良の悪友ってとこかな。
 あら、恭ちゃん、何を笑っているの。これでも結婚してからはほとんど飲まなかったのよ。本当の話。 信じられないって? 失礼ね。まあ、いいわ。そう、ほんの数年前までは主人の晩酌にちょっと付き合うくらいでね。夜に出歩くことなんてなかった。貴女くらい若い頃から飲めるっていいことよ。歳とってからこんな盛り場うろついたって、心ときめくことなんて、なかなか起こりはしないもの。
 え、主人? 元主人になるけれど、うーん、元気にやってるんじゃないかしら。毎月きちんと慰謝料は振り込まれているし。
 そう、離婚したの。人生も後半に突入してから離婚することになるなんて、夢にも思っていなかったわよ。それにしたって、肉体的にも精神的にも、あれほど消耗する出来事ってそうはないと思うわね。私たちの場合、歳も歳だったし、状況は最悪だった。でもね、自分で言うのも何だけれど、仲の良い夫婦だったのよ。子供はついに出来なかったけれど、特に欲しいなんて思わなかった。だって、私たち十分幸せだったんですもの。二人で居るだけで、本当に本当に満足だったの。彼は公務員だったから、残業もほとんどなかったし、華やかな席は苦手だからって、会社帰りに同僚と飲みに行くなんてこともめったになかった。よほどのことがない限りまっすぐ家に帰ってきたのよ。私も最初の頃は勤めに出ていたから、仕事帰りに待ち合わせて食事したりね、楽しかった。
 旅行にもずいぶん行ったわ。子供がいない分、余裕があったしね。地中海のビーチでは手をつないで浜辺を歩いたの。日本に居ては照れ臭くってとてもできないけれど。私の祈りは天に通じたのよ。誠実で、優しくて、いつでも抱きしめてくれて、愛しているという言葉を、惜しげもなく注いでくれる存在が、たとえ終わってしまったとはいえ、私の片側にいたことに変わりはないの。
 狭いながら家も買った。大きな犬を飼いたかったから、どうしても庭が欲しかったの。白い毛がふさふさとした大きな犬。グレート・ピレネーズを飼ったわ。それでね、当たり前のことなんだろうけれど、望みがかなってしまうとね、今度はこんな幸せがいつまでも続くものなんだろうかって、不安になるの。取り越し苦労だってわかっていてもね。でもそれを言うといつも彼は笑いとばした。そうなの、笑いとばしてほしくて、何度も何度も聞いたのよ。おかしいでしょ。いい歳をしてそんなこと心配するなんて。でも確かめずにはいられなかったの。
 けれど四年前のある日、彼は笑って答えてはくれなかった。
 あの女が現われた四年前。
 そう、女。彼を女にとられたの。一体いつ知り合って、どこで逢瀬を重ねていたんだか。
 だってほぼ毎日、六時半にはきちっと帰ってきたのよ。週末だって、彼ひとりで出かけることなんて、まずなかったはずなのに。だから疑う余地もなかった。けれど、こんなのってずるいじゃない。唐突すぎるじゃない。ほんの少しでもあやしい素振りを見せてくれていれば、前もって少なからずの覚悟が出来たかもしれないのに。私には何の準備も出来ていなかったし、夫が浮気した場合の傾向と対策なんて、縁のないものだと思っていた。
 それなのに、その日はあまりにも突然やってきた。寝て起きたらその日のその場所に居たって感じね。
 四年前の、その春の一日、私はリビングの、お気に入りのソファに座っていて、カーペットの上には、がん首揃えて二人、情けない顔して正座して……。許してくれって、涙浮かべて言うの。まったく晴天の霹靂ってこのことよ。こういうケースってたいてい同じパターンだろうけれど、彼の新しい女は彼よりも、もちろん私よりもずっと若くて、苦労して育ってきて、苦労してきた人間特有の無垢な顔をして、もうすぐ幸せを掴みとろうって時になっても、世の中の不幸を全部背負っているんだって眼をしていたの。
 生まれついての不幸って、もうその人の仕種とか表情に、否応なく染み付いてしまうのもなのね。けれど、その不運をしっかりと受け止めて生きてきた人って、信じられないくらいきれいな眼をしているわ。その眼を見た瞬間、私は頭の中が真っ白になった。文字通り真っ白よ。過度のショックで言葉を失うって、本当のことなんだって初めて知ったわ。私の記憶にあるのは、夫の、出会った頃よりもずっと薄くなった頭部と、長く艶やかな女の髪、そして外はよく晴れて、心地の良い風が、リビングを吹き抜けていったということだけ。
 何をどう説明されたのか、全く覚えていないの。それで、その日はとりあえず話にならないからって、女が帰っていったことすら私は気づかなかった。
 その夜から丸三日間寝込んでね、私、ようやく現実と立ち向かう気になったの。彼にとって煩わしい存在にだけはどうしてもなりたくなかったから、きちんと話をしようって思ったのよ。心のどこかで、誠意をもって説得すればきっと大丈夫って、自信があったの。だって、私たち、夫婦なんだもの。最終的には彼は私の元に戻るって。彼が私を見捨てるなんてこと、あるはずがないって。
 そして四日目の朝、何とか起き上がってシャワーを浴びてから、のろのろと掃除機をかけて、洗濯して……。キッチンに立つことができるまでに丸半日かかった。今思い出してもスローモーションのような一日よ。
 夕食には彼の大好きな酢豚を作ったわ。私の得意料理なの。どこで食べるよりもおいしいって、彼も言ってくれていた。これを食べれば彼も思い直すかもしれない。頼りない理由だけれど、何も引き留めるものがないよりはましだった。
 そして、ぐったり疲れていたけれど、私、いつものように、今までと同じように、帰宅した彼を迎えた。『おかえりなさい』って、その日何度も練習した言葉と、笑顔とともに。彼の方も何もなかったように、スーツを脱いで顔を洗って、ビールを飲みながら私の作った夕食を食べ始めたわ。その様子を見ていたら、何だかすごく喉が乾いてきたの。極度に緊張していたのね、きっと。それで私も冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲んだのよ。そしたら何て言ったと思う? 
『よかった、元気になってくれて』だって。信じられる? 
 それはないでしょ。私たち二十年も夫婦やってきたのよ。やっとの思いで平静を装っていた私も、限界だった。その場に崩れ落ちて泣きわめいたわよ。まるで三歳の子供。人間やっぱり自分の手で子供を育てないと、完全には大人になりきれないのね。泣きじゃくる我が子を前にして初めて、自分が持っている子供の部分を捨て去ることが出来るんだわ。


 


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