Innocent Pearl

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 あ、そうそう、おかわりは? 
 気がつかなくってごめんなさい。同じものでいいの? 恭ちゃん、彼女におかわりを、私にジム・ビームをダブルでちょうだい。
 それでね、彼のその言葉で決心したの。絶対に別れるもんかってね。
 このひとは私をわかってない。そして私も、一年もの間、夫が外で愛人と過ごしていた時間があったことにまったく気づかなかった。私たちには、もっともっと時間が要る。夫婦としてわかりあうための時間がまだまだ足りていなかったのよ。こんな中途半端に終わるなんてどうしても納得できなかった。
 とにかくその数日間で身も心も擦り減ってしまってね、思い出したくもないほどに。
 それからすぐよ、彼のいない昼間から飲み始めたのは。素面で彼の帰りを迎えるのが、日に日に恐ろしくなっていったの。そして、だんだんと度数の強いお酒を口にするようになって。
 後は想像がつくでしょう。話し合うどころか、毎日が修羅場よ。彼の心を取り戻したいと思えば思うほど、呪いの言葉が口をついて出る。愛しているんだって、それだけを伝えたいあまりに、しまいには罵ってしまう。
 そのうちミイラになってしまうんじゃないかって思うくらい泣いて、わめきながら。彼の方は負い目があるから、うなだれて、黙ったままそれを聞いていた。その姿を見るとよけいくやしくなるの。
 どうしてそんなに惨めな表情が出来るんだろうって。
 惨めなのはこっちよ。うなだれたいのはこっちよ。もっと幸せそうな顔をすればいいのよ。なんたって若くてきれいな女性と相思相愛の真っ只中なんですものってね。ひどいもんだわ。
 それが毎晩。丸一年続いたの。彼もよくそれに付き合っていたと感心するわ。その上時々、食事まで作ってくれた。何か食べないと身体に悪いからって。お湯も沸かしたことがなかった人がね。でも私には一口も食べることができなかった。
 だって、初めてキッチンに立った男がいきなりほうれん草のおひたしなんて、作る? 白身魚の煮付けなんて、どこで覚えてきたというのよ。
 決まっているじゃない、あの女が教えたのよ。高蛋白・低カロリーの、肝臓にやさしいメニューをね。情けないわよ。夫の愛人にまで気を遣われてしまうなんて。彼が用意した小鉢を見ていたら、彼女の匂いがふわっと沸き立つように感じてね。若い女の匂い。吐き気がしたわ。馬鹿にしないでよって、壁に投げつけたの、思い切り。
 庭で寝ていた犬までもがびっくりして、飛び上がったくらい。もちろん犬の毛並みだってひどいことになっていた。罵り疲れて私が眠った後に、彼が散歩に連れていくだけで、ろくに世話もしてあげていなかったからね。今? 元気よ。その頃の反動のせいか、よく食べるから、ちょっと太り気味だけれど。
 恭ちゃん、おかわりちょだい。ダブルでね。大丈夫よ、今夜はこれで最後にするから。
 そうそう、あのね、恭ちゃんもバツイチなのよ。結構いい男でしょう。頭はいいし、優しいし、昔からもててもててしょうがなかったの。子供の頃からずっと、彼の周りにはいつも女の子がよりどりみどり。結婚してからだって、その勢いはとどまること知らずでね。むしろ年齢重ねた分、渋味が増してきたっていうのかな。
 とにかく会社勤めをやめて、お店をもつようになってからは浮気し放題よ。ついに奥さんは愛想尽かして出ていっちゃった。今や侘びしい独身生活。だいぶ懲りたみたいでね、最近じゃ、女の子に見向きもしないの。
 以前だったら、あなたみたいな若くてかわいい娘さんが店に来た日には……ごめんごめん、この辺にしときましょう。でも、ひとつだけ言っておくわ。恭ちゃん、トレード・マークだった蝶ネクタイ、やめて正解よ。ネクタイの方がすっきりして、ずっとかっこいいわよ。暗い照明のあやしげなバーに、色男が蝶ネクタイじゃ、いかにも、でしょう?
 どこまで話したかしら? 一年続いたってところね。そうよ、一年もたてば、もう彼も私もげっそりよ。どこかで終わらせなくっちゃって、毎日思ってはいたんだけれどね、解決法を考えるより前に、お酒に手が出ちゃうのよ。
 自分じゃあどうしようもなかった。彼も止めようとはしなかった。そんな彼を見てまた腹が立つ。アルコール中毒でぽっくり死んでくれればいいのにって、きっと思ってるんだわって。
 私はね、彼が酒瓶を取り上げて、ひっぱたいてくれるのを待っていたの。けれど彼は私に触れようともしなかった。言葉すらかけてくれなくなった。身体に優しいメニューも作るだけ無駄だって、わかったみたい。ただ悲しそうな表情で私の醜態を傍観しているだけ。
 もうやけくそよ、彼の足にすがりついて、お願いだからって、叫ぶの。でも一体、何が『お願い』なのかもわからなくなっていた。
 当たり前のことだけれど、一度冷めた気持ちってそう簡単には戻らないわ。戻ったと思っても、それは錯覚。同情に似たもので愛じゃない。そんなことくらい、知っている歳だったはずなのにね。
 とにかくそうやって、悪夢のようなあの日から一年目を迎えたの。彼があの女を連れてきた日よ。一世紀以上経ったような気がしたわ。信じられないくらい一年が長かった。
 その日、いつものようにリビングルームのソファにもたれながら、ウィスキーのロックを朝からあおっていたの。私にとっては記念日だもの。最愛の夫を、どこの馬の骨とも知れぬ女に横取りされた記念日。あ、そのソファはね、彼が特注で買ってくれたものだったの。私、昔から腰痛持ちでね、ほら、市販のソファって、柔らかすぎるでしょ。あれって、腰に良くないのよ。だからわざわざ固いクッションを使って、オリジナルで作ってもらったものだったの。
 彼の愛情が込められた一品、というわけ。当然じゃない、離婚する時には捨てたわよ。ねえ、お節介はほどほどにするけれど、去っていった男の荷物なんて、さっさと捨てた方がいいわよ。貴女は独り暮らし? だったらなおさら、スペースの無駄以外のなにものでもないわ。次の恋へのステップには、過去の想いとの決別が絶対に必要なのよ。もう、貴女のことを、好きでもなんでもないただの他人よ。もったいないじゃない。そんな男のために、狭いアパートの、たとえ箪笥の隅であっても提供しておくなんて。これは、老婆心。ふふ、気にしないで。そのうち馬鹿らしくなるから。
 えーと、うん、それでね、リビングリームといってもまるでゴミ溜めよ。彼が時々、掃除をしてくれていたけれど、家の中全体がすさんで、嫌な匂いが漂っていた。
 外は良い季節よ。きちんと手入れをしていれば、色とりどりのかわいらしい花々が庭中に咲いていたはず。そして、芳しい香りが、滑らかな風に乗って、カーテンを揺らして、私は深呼吸して、洗濯物を干す。西風にはためく真っ白なシーツを眺めながら、ハーブ・ティーを飲む。私にとって、彼と一緒になってからはずっと、春ってそういう季節だった。
 でも、もう私には、春は永久に来ないんだ。私の春は終わってしまったんだ。そう考えて、新しいボトルを開けた。午前十一時によ。だって、皮肉なくらい天気が良かったんですもの。こんな日は嵐にでもなってくれれば少しは救われるのに。だから酔った勢いで、ティシュ・ペーパーでてるてる坊主をたくさん作って、カーテン・レールに逆さに吊り上げた。惨めね。こんなに惨めなことって、ないわよね。美しい春の日に、朝からやけ酒飲んで、世の中の、幸せな人々を呪いながらなんとか雨を降らせるために、ティッシュ・ペーパーを丸めている中年女……。惨めね。
 恭ちゃん、氷もらえる? それと、彼女にもうひとつサンドウィッチを作って、持ち帰りようにしてあげて。……いいから、明日食べなさいよ。飲んだ次の日って食欲ないけれど、どうせ明日の夜も飲むんでしょう。昼間のうちに、ちゃんと食べるのよ。身体こわしちゃ、恋もできないわよ。
 で、その日なんだけど、庭に降り注ぐ木洩れ日を見ていると、だんだん情けなくなってきて、そのうち涙がこぼれてきて……。シャンプーはおろか、ブラシすらかけてあげていなかったものだから、すっかり汚くなった犬を見てはまた泣いて。
 泣きながら飲み続けたわ。口からこぼれたウイスキーが服やカーペットや大事なソファに染みを作ってもおかまいなし。でもね、どういうわけか、その日はあまり体調が良くなかった。早くから頭痛がしてきて、変だな、と思ったの。もちろんそんな生活続けていたんですもの、健康体なわけないわよ。それを差し引いても、いつものようにすうっと酔えないのよね。まあ、一般人が一日に飲む量をその時点ではるかに超えていたんだから、変も何もないわね。しかも『記念日』だったわけだし。でもいつものペースで飲んでいたつもりだったのよ。
 とにかく昼過ぎになって、ついにうとうと眠り始めたの。夢を見たような気がするけれど、覚えてないわ。なんともいやな眠りだった。浅い睡眠だったにもかかわらず、妙に身体だけは深い深い穴ぐらの中から抜け出せないような。長いような短いような眠りだった。
 あまりにも喉が渇いて目を覚ますと、もう日が暮れていた。酔いは覚めていたけれど、ものすごく身体が重かった。とくに下腹部が痛くて、トイレに行こうと思ったけれど、立ち上がる気力すらなかった。けれどすぐに痛みの原因がわかったの。そうだ、生理がくる時期だって。長いつきあいだもの、すぐわかるわよ。
 それにしても不思議なものね、あれだけ飲んで、不健康な生活を続けていても、生理だけは毎月きちっときていたの。子供は出来なかったくせに。これも皮肉よね、何のために物憂い一週間を過ごすんだか。とりあえず、腰を上げて、トイレに行くことにした。いくらなんでも生理の始末くらいはしないとね。どんなに酔っ払っていても、それくらいの分別はぎりぎり残っていたのよ。
 でも立ってみて初めて、まだ酔いが覚めきっていないことがわかった。意識ははっきりしていたけれど、足元はふらふらよ。あちこちぶつかりながら、ほうほうの体でトイレに辿り着いた。便器に座って、下着を見て、あれっと思ったの。まだ始まっていなかったみたい。それにしては強い痛みだったから、きっともうすぐ始まるだろうって、タンポンの用意をしようとした時よ。ひんやりとした何か小さいものが子宮の奥から卵管を通過していくのがわかったの。
 時間にしてみれば一、二秒のことだったけれど、今でもその感覚ははっきりと覚えているわ。尿意とはあきらかに違ったし、これは生理でもないって、直感したのよ。
 冷たい氷の粒が、つうっと流れていくような感じ。それがつるっと外に出て便器に落ちたの。コツンと、小さな音がした。その音を聞いて奇妙な感じがしたのよ。
 だって、そうでしょ。コツンだなんて、硬い固体と固体がぶつかる音じゃない。何が落ちたっていうのよ。私の身体から、しかもそんなところから、一体何が出てきたっていうの。全身鳥肌ものよ。でも悪い病気とかそんなんじゃないって、直感した。どちらかというとオカルト的なことを考えてしまったのね。まだら色した卵から見たこともない虫が殻を割って出てくるのよ。その虫は悪魔の使いで……なあんてね、まだ酔っていた証拠よね。
 それで、恐る恐る便器を覗いてみたわ。そうしたら、よく見なければ見逃してしまいそうなくらい小さな、丸い物が浮いていたの。つまみ上げて拭いてみると、小指の爪よりも小さくて、表面はでこぼこしていて、ミルク色をしてた。赤ちゃんが飲むような粉ミルクの色よ。
 頭を傾げながらトイレから出て、よく洗って、丁寧に磨くと、真珠のような艶が出てきた。なかなか奇麗な代物だったわ。加工される前の真珠ってところ。しばらくはうっとりとその光沢に魅入ってしまったほど。でも問題は、どうしてこんなものが出てきたのかってこと。ちょっと気を落ち着かせるために、新しい氷を用意して、ちびちびとウィスキーをなめながら、使っていないガラスの灰皿に入れたその不思議な白い珠を見ていたらね、思い出したの。赤い珠の話。あなたも聞いたことあると思うんだけれど、
 ……え、知らないの? そう……。


 


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