「この辺でいいだろ」
私の返事も待たず、彼は人が溢れる砂浜にビニール・シートを敷
いた。
周囲に知った顔がいないことを確かめてから、私は彼に並んで腰を下ろす。日中いっぱい太陽に暖められた砂はまだ、ほのかな
ぬくもりを残していた。夏祭りのフィナーレをかざる花火が、もう
すぐ打ち上がるだろう。
「ねえ、あのビル何かしら?」
「ほんと、真っ暗じゃない」
観光客の囁きが嫌でも耳に入る。反射的に立ち上がりかけた私の
肩を、彼の掌がそっと押さえた。
ビーチ沿いに建ち並ぶホテルの中で、私達の真後ろにある建物だけが、一つの電灯も点すことなく、不気味に佇んでいる。
かつて父が経営していたホテル。
毎年この日、最上階の部屋に家 族全員が集まり、花火を観た。一年を通して最も混み合う日にも拘
らず、その部屋だけは家族の為に残しておいたのだった。その特等席は、少女時代の私の、何よりの自慢でもあった。
忙しい父も、その時ばかりは仕事を中断した。でも父は、花火なんか観ていなかったのではないか、と今になって考えることがある。花火に興奮し、はしゃぎながら振り返ると、必ず父の優しい瞳が私を見つめていた
からだ。後になって、姉も弟も同じことを言っていた。
崩壊はあっという間の出来事だった。
ホテルが人手に渡ると同時に父は姿を消し、家族は分散した。逃げるように都会へ移り住んだ私も、偶然、同郷の彼と恋におちるまで、この街に一度も戻ること
はなかった。
幸せだった分の惨めさを残して出た街。けれど、生ま
れ育った街……。
地鳴りのような音と共に空気が揺れた。頭上に巨大な火の華が咲
く。瞬く間に、夜空が光の雨に包まれた。 間近で観る花火の迫力は、防音の厚い窓から観ていた時とは比べ
ものにならない。切なさも悲しみも吹き飛ばさんばかりに、休みな
く花火は上がる。そして艶やかな大輪の花を描いた後、一瞬にして
輝きを失い、空の一部になる。
そう、束の間だからこそ美しい。幸せだって同じことだ。狭い街のこと。私の家庭事情は、お節介な第三者の口から、彼にも伝わっていることだろう。
私は彼の肩に顔を寄せ、白いTシャツにそっと涙を滲ませた。
「毎年、この花火を見よう」
打ち上がる花火の音の合間に、私は彼の言葉を聞いた。
「これからもずっと、この砂浜で」
私は何度も頷き、再び彼のシャツを濡らす。
「お祭りの日に泣くなんて、迷子だけだよ」
火薬の匂いを含んだ潮風が、頬を撫でていった。
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