Holiday


 はじめのうち、香里がシャワーを浴びているのかと思った。まどろみから醒めきらない身体を反転させて、隣のベッドを見ると、彼女は肩まですっぽりと毛布を被り、まだ深い眠りの中にいた。嫌な予感が少しずつ現実味を帯びながら胸に広がり、ため息がそれに続く。雨音から少しでも遠ざかりたくて、私は毛布を耳元まで引き寄せた。
「ダイビングは無理ね」
 ぐっすりと眠っているかのように見えた香里は、すでに目を覚ましていて、さっさと起き上がってミニ・バーに立つと、電気ポットで湯を沸かし始めた。
 私はもう一度眠ってしまおうと、きつく目を閉じる。夢の中に逃げ込んでいるうちに、南国の太陽が雨雲を追い払い、再び目覚める頃には、惚れ惚れするような青空が広がっているのに違いない。
「このぶんじゃ、一日中降るわね」
 香里の冷静な言葉に、はかない希望も打ち砕かれた。わたしはぐずる小学生のようにのろのろとベッドから出ると、ソファの背に首をもたげて座った。
「飲みなさいよ」
 まんべんなく窓に張り付いた水滴を恨めしく見つめていた私の前に、湯気の立つ紅茶が差し出された。
「スコールよ」
 私はあきらめきれずに呟く。
「まさか」
 香里はテラスの窓を開け、真剣な眼差しで確かめるように海を見る。強い風と共に、横なぐりの雨が部屋の中まで入り込み、並べて置いた二人分のダイビング器材を濡らした。つられて私も窓の外に目をやると、空と水平線の境すら区別のつかない、ただの灰色の空間が広がっていた。昨日まで、囁くように静かな波を寄せていた海の姿は、どこにもない。
「やっぱり無理ね」
 香里の声は、思いのほか明るい。
 短い休暇の最終日。この島近海にしか生息を確認されていない、ヘブン・バタフライ・フィッシュを観る為の早朝ダイビングは、フイになってしまった。
 お互いの結婚以来、ようやく実現した女同士の気ままな旅。明日にはこの部屋も引き払う。浅瀬でのシュノーケリングも、小さな蛇の出現に飛び上がったジャングル・トレッキングも、それなりの良い思い出になったことは違いないけれど。それでも、香里の口元には、かすかな笑みさえ浮かんでいる。
「亭主たちへの言い訳になるじゃない」
「何?」
「もう一度、この島へ来る理由が出来たじゃないの」
 七色の背鰭を持つという、幻の大魚。長年の夢だった対面の時。この旅最大の目的は、果たすことのできないまま終わりそうだ。
 恵みの雨が、降り続いている。


 

後記:たかだか雨でダイビングが中止になるわけないじゃないですか。リゾートダイバー時代の名残です。


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