彼女のアイランド


「あの」
 電車の中で、見知らぬ少年に突然声をかけられた。
「エル ーセラ島へ行かれますか?」
「え?」
 私は少年の前に立ち、カリブのガイドブックを読んでいる ところだった。バハマに住む友人夫婦を訪ね、三日後、日本を発つ ことになっている。
「行くつもりだけど」
 首都ナッソーからセスナで三十分。エルーセ ラは淡いピンク色の砂浜が有名な島だ。 私の答えに、少年が目を輝かせて言った。
「あの島の砂を、少しでいいんです、持って帰ってきてもらえませんか?」
 一体、何に使うつもりなのか。けれど、それは聞かないことにして、帰国後、会う約束をして別れた。面識のない人間に、そこまでする義理もないが、断れなかったのはきっと、長い髪を金色に染め た少年の眼差しがあまりにも真剣で、丁寧な口調の中に切羽詰ったものを感じたからだろう。
 一ヶ月後、地下鉄のホームで少年にピンク・サンドを詰めた小瓶を手渡した。熱帯の温度を確かめるかのように、彼は瓶を指先でそ っと擦りながら言った。
「何かお礼をしたいんですけど」
「いいのよ」本当のところ、バハマからの日帰りツアーでも結構な値段なので、迷ったのだが、少年との約束に後押しされた。けれど、神秘的な美しいビーチは、高額な代金を払って行くだけの価値は十分にあった。私がそう言うと、少年はほっとしたように頬を緩め、何度も頭を下げながら去っていった。
 半年ほど経った頃だろうか。ある小さな葬祭場の前で、私は立ち止まった。ちょうど出棺の時間らしく、歩道にまで人が溢れ出して いる。仕方なく一通りの儀式が終わるのを遠巻きに眺めながら待っ ていると、ピンク地のジャワ更紗が掛けられた棺が運び出された。葬儀には不釣合いな艶やかさだが、おそらく故人が生前好きだった色なのだろう。参列者の年齢層からすると、亡くなったのは若い女 性のようだ。そうと判った途端、他人のこととはいえ、胸が締めつ けられる思いがした。そして、別れを告げる長いクラクションを響 かせながら霊柩車が走り出した時、ひときわ激しく泣きじゃくりな がら、一歩車道に踏み出したのは、紛れもなく、あの少年だった。
 故人が少年の恋人なのか姉妹なのか、知る由もないけれど、遥かカリブの海から運ばれた、煌くピンクの砂は、棺の中で彼女と共に永い眠りにつくのに違いない。私は心の中で合掌し、足早にその場 を去りながら、亡き人には、読経の声さえも波の音に聞こえるのかもしれない、と思った。


 


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