Magical Heat


 私はそのコーヒー色の皮膚に爪を立てた。苦痛の呻き声とともに 洩れる溜め息からも、キスの後、互いの唇を結ぶ銀の糸からも、濃厚なガラムの香が匂いたつ。東南アジアの島に生まれた男特有の匂 い。彼の指が辿った後は、火傷のように熱い。彼の名はラス。宿泊 しているホテルのベルボーイ。あと何度、私はこの腕に抱かれるこ とが出来るのだろう。
 美香は部屋にいるのだろうか。私たちの逢引きに気づくこともなく。まあ、いい。日本に戻れば恋人の待つ彼女と違って、後ろめたさを感じる理由など、私にはないのだから。津波のような快楽が全身を突き抜け、次の瞬間、潮が曳くように去っていった。

「気がついた?」
 ベッドに横たわる私を美香が覗き込んでいる。
「私、一体どうしたの?」
 起き上がって私は訊いた。
「ダンスを観ている途中でトランス状態になって、気を失ったのよ、あなた」
「そう」
 バリ中部の村、ウブドで観たケチャ・ダンス。百人近い男たちが輪になって歌い、踊る。決して譜面に出来ない、その奇跡的なリズムを聞いているうちに、心地良いのか不快なのか、判断のつかない幻暈に襲われたことを、ぼんやりと思い出した。
「タクシーで戻って、ロビーからはベルボーイが部屋まで運んでくれたのよ。今朝あなたと話していた男の子。ラスっていったっけ?」
 夢の中で触れた熱い指先の感触が肌に甦った。
「ねえ、まだ旅の初日よ。大丈夫?」
 一週間の休暇は始まったばかりだった。
「夕食は、どうする?」
「行くわよ。予約してあるし」
 食欲などまるでなかったが、外の空気に触れたかった。身体中に、まだ熱がこもっていた。

「気分は良くなられましたか?」
 エントランスでタクシーを待っていると、ラスが近づいてきて言 った。がっしりとした体格には似合わない少年のような笑顔を前に、私はあわてて視線を逸らす。さりげなく言葉を交わすには、あまりにもあの夢は生々しすぎた。
 美香が代わって礼を述べ、車に乗りこもうとした時、ラスが、私だけに囁いた。
「夜はビーチ・バーに居るから、よかったらおいでよ」
 強いガラムの匂いがした。私は曖昧に頷きながら、彼がドアを閉 めるのを待つ。もしかして……。ここは神々の棲まう島。神に魅入 られた土地。訪れる人は奇跡を垣間見ることもあるという。もしかして、あれは夢ではなく、神々が見せたほんの少し先の未来……。
 鼓動が爪の先まで伝わり、身体の奥で、小さな炎が妖しくゆらめき始めた。


 


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