Lonesome Moon


 彼女の細い指先が、その香草を挟んだ瞬間、僕はこれまでの恋なんて取るに足らない、友情のほんの少し延長だったことを思い知らされた。磨きあがられた真珠のように白く輝くマニキュアの上に、色とりどりの花模様が散っている。それは僕にとって、どんな名作よりも美しい一枚の絵画だった。
 彼女は左手でつまんだ香草を躊躇うことなく口に運び、僕を見上げた。
 初めて海を見た猿は、やはりこんな風に戸惑いを覚えたのだろうか。僕は仕事を忘れ、ゲストの声も届かず、チーフに注意されるまで、彼女が食事するテーブルの側に立ち竦んでいた。僕らの宗教からすれば不浄の左手が、この上なく神々しい、特別な存在に見えたからだ。
 三杯目のワインを運ぶ頃、彼女はサングラスをかけていた。
 夜なのに何故? 不思議に思いつつ、僕は黙って皿を下げた。
 毎晩、彼女は僕の働くレストランへやってきて、殆どの日本人が残す香草の入ったサラダを食べ、ワインを飲んだ。このリゾート内には他にも食べる場所はある。
「他へは行かれないんですか?」
 ある夜、僕は思いきって聞いてみた。
 彼女は静かに首を振る。
 彼女の視線は、ハネムーナーで賑わう外のバッフェを見越して、夜の海へ注がれていた。
 夜毎、僕は彼女にワインを運ぶ。彼女が初めて口にした僕の名前は、神の啓示のように耳に響いた。それに比べて僕の唇はあまりにも不器用で、決まって、おかわりはいかがですかと繰り返すだけ。でも僕は上手に微笑むことだけは出来ているだろうか。僕の気持を察した仲間が口々にからかう。
「顔がにやけてるぞ」
 そう、彼女の姿を見つけた途端、僕の頬は筋力を失ってしまうのだ。

 嵐のため電気が止まったあの夜も、彼女は蝋燭が灯されたいつもの席に着く。氷で冷やしたワインを彼女が飲み干した瞬間、海風が火を吹き消した。同時に空の黒雲が流れ、残酷な月明りが、日に焼けた彼女の左手に残る指輪の跡を薄闇の中、くっきりと浮かび上がらせた。僕は彼女のサングラスの意味をその時初めて知ったのだ。
「明日、発つわ」
 彼女が言った。
「いつも微笑んでいてくれて、ありがとう」
 彼女は颯爽と席を離れ、僕は呆然と立ち竦む。
 どれくらい経っただろう、仲間が僕の背中を叩いて言った。
「目が潤んでるぞ」
 僕は彼女がテーブルに置き去りにしたサングラスを手に取り、かけてみる。
 僕には小さすぎるサングラスは、それでも僕の涙を、上手に隠してくれた。


 


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