遠い残照


 亜矢がなぜ、この海を永眠の場所に選んだのか、彼女の夫は、散骨を終えてもまだ首をひねっていた。サンタモニカ沖から港に戻ったクルーザーから降りる参列者一人一人に、彼は丁寧に礼を述べる。
「遠いところ、ありがとうございました」
「主人も来れるとよかったんだけれど」
「お忙しいでしょうから。あなただけでも来てくれて感謝しています」
 私は差し出された手をそっと握り返した。若くして妻を失った男の手。それは暑い午後にも拘らず、汗ひとつかいてはいなかった。

 ホテルに戻ると、私はタンクトップとジーンズに着替え、再びビーチへ向かった。十年前のおぼろげな記憶を辿り、亜矢とあの日、立ち寄ったビーチ・バーを探す。ブルーのペンキが剥げかけた壁。再訪を待っていたかのように、何ひとつ様相の変わらないそのバーの前では、若者たちがビーチ・バレーに興じていた。
 私はクアーズを買って、外のテーブルに座る。灰皿があるのを確かめてからセイラムに火をつけると、死の直前に見た亜矢の指が、煙草と同じくらい細くなっていたことを思い出さずにはいられなかった。
 病魔は恐ろしい速さで若い彼女の身体を蝕んでいったのだ。

「あの旅は楽しかったわね」
 病の床で、彼女は私に言った。
 海を愛し、世界各国を旅して周った亜矢。けれど、『あの旅』がいつの旅なのか、問い返さなくても、私にはわかっていた。
 
 学生最後の夏休み、アメリカ西海岸を二人で周った。最後に訪れたサンタモニカでは、朝からビールを飲み、地元の男の子たちにサーフィンを教わり、カクテルを奢ってもらい、日が暮れ始めるまでビーチで過ごした。ほろ酔い気分で帰り支度をしていると、別のサーファーが近づいてきて、言った。
「パーティがあるんだけれど、来ないか?」
 胸の奥では警鐘が鳴り響いていたけれど、開放感と好奇心と、若さゆえの向う見ずな決断力を押しとどめることは出来なかった。
 オープン・カーでハイウェイを走った。サンセットの奇跡のような美しさが、魂までをも染めていくような気さえした。カー・ラジオから流れる声は、風の音にかき消され、すれ違ってゆく車の騒音と、笑い声と、聞こえるはずもない波の音だけが耳に届いた。亜矢の頬は、まさに水平線に消えていこうとしている瞬間の太陽の光に照らし出され、笑顔にこぼれた白い歯は、輝いていた。
 案内された家では、若い男女が集まり、ポップソングが鳴り響き、狂乱の騒ぎの最中だった。そこでまたビールを飲み、踊り、夜も更けた頃、亜矢がはしゃぎながら一人の青年と寝室に消えた。その後、私も誘われるまま、今となっては名前すら思い出せないブロンドの男と、朝まで共に過ごすことになった。

 誰の人生にも青春という時代が確かにあるのなら、それは、そのめくるめくような時を、まさに凝縮したような一日だった。

 バレーボールが足元に転がる。
「失礼」
 拾い上げて再びコートに戻る少年は、ウインクをしながら、さらに投げキッスをしてみせた。それでも、十年前ならその先に続く、歯の浮くようなセリフがきっと用意されていたのに違いない。何もなかったかのようにゲームに戻ったその少年が放ったボールは、白砂のコートに、見事な弧を描いた。

 二本目のクアーズを空けたところに、黒い服に身を包んだ男性が近づいてきた。私は驚いて彼を見上げる。亜矢の夫だった。
「やあ、こんな所で。あれからすぐいらしたんですか?」
「ええ」
 私はチェアをずらして、彼をテーブルに招いた。
「今日は本当にありがとうございました」
 彼女の夫は繰り返す。
「時差ボケでね、酔って寝てしまおうと思ったんですが。ホテルで一人で飲むのは味気ないし。気分転換にね……」
 そう言ったきり彼は口を閉ざし、しばらくの間、穏やかな波を見つめながらハイネケンを飲んでいた。
「僕はね、パラオかモルジブあたりかな、と思っていたんです」
「え、何が?」
「散骨の場所です。死んだら遺骨は海に沈めてくれって、まだ元気な頃から、彼女は僕に、しつこいほど言っていたんです」
 亜矢の遺言は、通夜の席で初めて聞かされた。

 『骨の一部を、サンタモニカの沖に散骨して下さい』

 私は答えることが出来ず、空になったクアーズの缶を指先で回す。
「パラオへは何度も潜りに行きましたから。モルジブは新婚旅行の地だったし」
 妻と共通の趣味を楽しむために、彼はダイビングのライセンスをとり、休暇の度に南の島へ彼女を連れて行った。
「もう少し飲みませんか」
 再び押し黙った彼に、私が訊いた。
「そうですね、もう一本だけ」
 私はバー・カウンターで二本のハイネケンを買い、席へも戻ろうとした。
「サンタモニカは、貴女と一緒だったんでしょう」
 振り向きもせず、彼は海を見つめたまま言った。私はその問いから逃げるように、喪服姿は、なんてカリフォルニアの海に似合わないのだろう、と考えた。
「大学の卒業旅行だったそうですね」
「はい。シアトルから南へ下ってサンフランシスコを訪ねたあと……」
「知っています」
 彼は私の言葉を遮って、ビールを一気に流し込み、大きな息を漏らす。
「ルーズな彼女が、その時の写真だけはきちんと整理してアルバムを作っていたんです。でも、おかしなことにサンタモニカでの写真がない。この地の写真だけないんです」
 私のアルバムにも、ない。シャッターを押す暇さえ惜しいほど、楽しすぎる時間だったのだ。
「話すら聞いたことがない。最後にサンタモニカに寄ったのよって、それだけしか聞かされていない。彼女が死ぬ前は、気にもしなかったことですけれど」
 私も、そうだ。私もよ、亜矢。夫はもちろん、誰にも話していない。あのサンセットの情景を言い表すことが出来ないのと同じように、どんなに美しい言葉をもってしても語り尽くせない、そう、あれは生命の終わる時まで胸の奥にしまっておくべき一日だった。そうよね?
「たしかフィルムが終わって。最後の一日だったし、買い足さなかったのだと思います」
 声が微かに震えていた。
「そうですか」
 ビールの缶がそっとテーブルに戻された。乾いたその音が、早くも彼の酒が空になったことを告げていた。
「お話できてよかった。ようやく眠れそうです」
 彼の両目は既に赤く縁取られている。
「お先に失礼します」
 彼が歩き出した時になって初めて、私はずっと以前、亜矢から、彼女の夫が下戸であると聞いたことを思い出した。

 私はしばらく呆然と、沈み始めた太陽と、その日最後の残照を映し出した海を見つめた。大好きだった友の眠る海。これより先も他人に聞かせることは決してないであろう、ほんの一日の出来事を語り合える友人を、本当に、私は失ってしまったのだ。
 こみ上げる嗚咽を抑えようと、両手が自然に口元を覆う。

「まだ酔うには早い時間だぜ」
 気がつくと、先ほどの少年が目の前に立っている。
「パーティがあるんだ、一緒にどう?」
 パーティ……。眩しいほどにきらびやかなあの場所に、私は今、馴染むことが出来るのだろうか。
 私はそっと首を振った。
 誰もが青春という時間を過ごすことが出来るのならば、すぐ目の前にある輝きに、背を向けなければならない一瞬も、人生にはきっと、あるのだ。
 少年が去った後、私はひとしきり泣いて、立ち上がった。サンセットの美しさは、若さの峠にさしかかった女にはあまりにも残酷な色だと、真紅の海で眠る親友に別れを告げながら私はぼんやりと考えていた。


 


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