Wanna be free AS A BIRD?


「珍しいものが手に入ったぞ」
 ジロウが興奮ぎみに翼を膨らませながら言う。
「食べ物?」
「そう、胡桃。聞いたことあるだろう」
 おじいさんが、若い時一度だけ食べたことがあるというその木の実の名前を、僕は憶えていた。
「山へ行ったのか?」
 彼の黒い羽の間から葉っぱが一枚、はらりと落ちた。
「かみさんに栄養つけさせなくちゃな。あやうく撃ち殺されるところだった」
 もうすぐ、ジロウ夫婦の卵が孵る。
「二つあるから、お前んとこのじいさんにも食わせてやれよ」

 僕はそのごつごつした丸い実を咥え、巣に戻った。今は使われなくなった灯台が僕ら一族の住み処だ。おじいさんの羽や足はすっかり弱り、もう自分で餌を取ることはできない。僕の差し出した木の実を見ると、おじいさんは目を輝かせて殻をつつき、中の実をこりこりと噛った。そして、感慨深げに一息つくと、そっと目を閉じた。また若い頃のことでも考えているのだろう。

 もうずっと昔のこと。急速な土地開発が進み、山を追われた鴉たちは、仕方なく住宅街の公園や学校に身を寄せた。慰み程度の緑はあっても、十分な餌をとれるはずもなく、彼らは人間の残飯を食べるようになる。すえた匂いを放つ奇妙な味にようやく慣れた頃、一人の人間が食事中の彼らに石を投げた。年寄りたちがわけもわからず逃げ惑う中、血気盛んな若い鴉たちがそいつに立ち向かった。

「それが戦争の始まりだった」
 おじいさんが言う。何度も聞いた話だ。天敵というものがいなかった僕らにとって、人間は生き残る為に戦わなければならない最初の存在となったのだ。
 途切れることなく道端に放り出される残飯のおかげで、増え続ける鴉に憤慨した人間たちは国際レベルでの鴉の一斉駆除に踏み切った。多くの仲間が捕えられ、巣に残った卵は始末された。山にも帰れず、街にも住めなくなった彼らが向かう場所に選択の余地はなかった。
 海だけが残された聖域だったのだ。
 そこには先住者がいた。水上にも、港にも、浜辺にも。海鳥と呼ばれる、鴎たちだった。安住の地に突然現れたよそ者たちを、奴等は「黒い魔物」と呼んで敵意を剥き出しにした。
 先祖たちは岩陰でひっそりと暮らし始め、どうにか初めての卵を授かった。若い鴎たちがそれを奪った。白く清楚なイメージとは裏腹に、奴等は僕たち鴉よりもずっと悪食だ。

「それが第二の戦争」
 おばあさんが口を挟む。
 海面に血が飛び散り、白と黒の羽毛が砂浜を覆った。種族存続の危機に晒された彼らは、次の協定を結ぶことによって、海での共存生活に合意した。
 1.互いの卵を略奪することなかれ
 2.血を流し合うことなかれ
 3.つがい合うことなかれ

 時折浜辺にやってくる人間たちは鴎たちだけに餌を与え、僕らを忌々しそうな表情で睨みつけた後、視線を逸らした。餌は自分たちで調達するしかない。僕らは大きく羽を広げて身体全体を浮きのようにし、足先をばたつかせながら魚を獲る。けっこうな体力を使う。僕やジロウの世代になると、羽はずっと柔らかく空気を含み易くなり、骨も強くなった分、海に浮くことはそう困難なことではなくなっていたけれど。
 それでもここ最近になって、僕らに餌付けし始めた人間がいる。初老の男と若い男の二人組だ。今日も目の前にパン屑が投げられた。
 年寄りたちは決して気を許すなと言っていたけれど、好奇心旺盛なジロウだけは止められない。彼は餌に飛びついた。
「びびるこたあないさ」
 彼は言う。
「俺達に興味があるらしい。食っておけよ」
 けれど他の誰も彼らに近づくことはなかった。

 ジロウの雛が孵った夜、一族全員が集まって、かわるがわる巣を囲み、その姿を飽くことなく見守った。
「まさか……」
 驚愕の声と感動のため息が、一晩中飛び交った。それは生命の奇跡がこの世に生誕した記念すべき夜だったのだ。

「この前産まれた赤ちゃん、水かきがついていたんですって?」
「完璧なものじゃないけどね」
「すごい進化だわ」
 ジョナが感嘆の声を漏らす。
「そうだね」
「ねえ、時がたてばいろんなことが変わるのかしら」
「ああ。きっと」
 その時、遠くで彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「もう行かなくちゃ」
 ジョナはほんの数秒、悲しげな瞳を僕に向けはしたけれど、すぐにその輝く純白の翼を広げ、飛び去っていった。
 彼女の姿が消えるまで、僕はその美しい姿に見惚れていた。
 第三の戒律に背いて、僕たちは、恋におちていた。

 フィンと名付けられたジロウの息子は、しばらくすると器用に水の上を行き来するようになり、素早く小魚を捕らえては、大人たちを驚かせた。その様子を一番嬉しそうな表情で見ていたのは、他でもない、あの二人の人間たちだった。

 そしてある日の午後、事件は起こった。僕がジョナとの逢引きから戻ると、ジロウの住み処である廃船のあたりがひどく騒がしいことに気づいた。嫌な予感を覚えて近づいてみると、そこには、捕獲網の中で暴れているフィンの姿と、誇らしげにそれを見つめる二人の男たちの姿があった。
「やりましたね、博士。世界中の生物学者が大騒ぎしますよ」
若い男が興奮して言った。
「そろそろこういった異変が起こると思っていたんだ。鴉に水かきか」
 怒り狂ったジロウが二人の頭上を旋廻し、威嚇の声をあげている。それでも奴等はおかまいなしに、大きな篭にフィンを移そうとした。
 その時、凄まじい速さでジロウが男たちに突進した。初老の男がよろめき、若い方の顔が恐怖で引き攣った。鴉がいよいよ人間を殺す最初の瞬間を想像し、僕は思わず目を瞑った。しかし、銃声に驚いて目を開けた僕が見たものは、何百もの赤い肉片となって海に散ってゆく、ジロウの姿だった。

 ジロウの死から、ひと月ほどたった頃、ジョナがそっと僕に告げた。
「ねえ、出来ちゃったみたいなの」
「え?」
 そんなことって……。けれど、フィンの例がある。考えられないことではない。喜びよりも先に、僕の心は戸惑いと恐怖に埋め尽くされた。戒律に反して産まれてくる罪の子。嘴はどんな形をしているのか。羽の色は? そして、完璧な水かきを持つ僕らの子供を、仲間たちもあの二人組も見逃すはずはない。
「逃げよう」
 僕は羽を広げ、震えるジョナの身体を包んだ。
「ずっと南の方に、鳥類だけが暮す楽園があるらしいわ」
 それは僕も聞いたことがある。ありきたりな伝説だ。誰も信じちゃいない。でも、でもでもでもでもそれならば、南なのか北なのか、右なのか左なのか、僕らの行くべき所は、どっちだ?
(飛べよ)大気の微動の中に、その声を聞いた。僕らは驚いて空を見上げた。空には境界線がなかった。山も街も海もなかった。不吉な色をしていようと、ゴミを漁ろうと、僕もジョナと同じ、この空を自由に羽ばたくことを許された、地球上唯一の生き物に違いないのだ。
(飛び立つしかないだろう)今度は、はっきりと聞こえた。ジロウの声に似ているような気がした。
「行こう」
 頷いたジョナの瞳に、透明の液体が光る。それを見た僕の視界も霞んだ。初めての経験だった。これも進化のなせるわざだと、あの学者たちは言うのだろうか。
 遥かなる水平線が太陽を反射して輝いている。未知なる世界が、僕とジョナに微笑みかけている、そう思えた。そして、芽生えたばかりの小さな生命は、僕らに海を越える力を、きっと与えてくれるに違いない。
 眩しいほどにきらめく空へに向かって、僕らは、ゆっくりと翼を広げた。


 


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