モンスーンが来る前に


「あと一週間ってとこだね」  
 空を覆う厚い雲を眺めていた私の前に、ダイキリが差し出された。
「モンスーンが来れば、船も出せなくなる」
 まだ少年のようなバーテンダー、レイは心配そうに私の表情を伺う。引き締まった唇から続く言葉は容易に想像できる。  
 そうなったら貴女もここから出られない。
 もうじきこの島近海は雨期に入る。数ヶ月間、連日激しい雨が降り続き、その間はリゾートもクローズする。
「雨期の間は、皆どうしているの?」
「ホテルのメンテナンスをしたり、他の島へ働きに出たりします」
 ここ数日、ホテルのスタッフの姿が減っているように感じたのは、錯覚ではなかったらしい。昨日まであんなに美しく輝いていた海には、所々小さな白い波が立ち、今にも津波となって襲いかかってきそうな気配さえした。けれど湿気を含んだ潮風に晒された木々の葉の色は妙に艶かしく見える。

 もう帰らない、と一言だけ書き残してきた。彼も少しは驚いただろうか。
 想像して私は溜息をつく。せいぜい貯金通帳がなくなっていることに気づいて、慌てた程度だろう。私の言葉なんて、風の音くらいにしか思っていないのだ、あの人は。
「貴方も他の島へ行くの?」
 レイはそっと首を振る。
「ここに残りますよ。島の人たちが飲みに来ますから」
 居心地の良いビーチ・バー。少なくともここに来れば、誰かが確実に側にいる。
「それに雨期は嫌いじゃないんです。なんかね、わくわくするんです。何処にも行けない、幽閉されたような状況が」
 子供の頃、台風が来る前に食料を買い込み、家中の雨戸を閉めてまわった時の、あのぞくぞくとした不思議な感覚が蘇る。
 レイが再び氷を砕き始める。既に見慣れた手の動き。今、氷に触れるあの指先は、陽が落ちた後はどんな熱を帯びるのだろう。彼の手の中で溶け出した水は、リキュールより甘いのに違いない。
「どうしました?」
 我に返ると、驚くほどすぐ近くにレイの顔があった。唐突に、その眼の中に閉じ込められてみたい、と思った。そして、それは一瞬にして押し止めようのない衝動へと変わっていった。 「
モンスーンの間もずっと、私にカクテルを作ってくれる?」
 躊躇う間もなく、言葉になった。氷のような現実よりも、苦しいほど熱い幻の方が、いいに決まっている。
 レイは新しいダイキリを差し出しながら、目配せをした。その瞳の奥に、微かな欲情の炎が揺らめいているのを、見逃すことはできなかった。


 


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